〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/30 (土) 『新・平家物語 (十一)』 P−187 〜 P−189

「── あれへ、泳ぎ着いて救われん」
と、敦盛あつもり が目指していた味方の船は、つい近くのように、初めは見えた。
が、呼べば答えそうなその船影も、いつまでも、おなじ距離にあった。
敦盛は、あせった。
すでに駒は、遠浅の極みを離れ、その四肢は全力で、真っ青な海潮の下でもがいていた
けれど、海の広さは圧倒を感じる。馬は、しぶきに耳を伏せて恐怖きょうふ した。敦盛も強い潮の香に呼吸がつまった。
「ちっ、ちっ、ち」
こう、くちびる を鳴らせば、いつもはままになる駒が、ほとんど、手綱にしたがわない。甲冑かっちゅう を乗せた重みにも苦しむものか、ややもすれば、沖波に押し返される ──。
特にこの辺の浜は、明石海峡の西から東へ大きくめぐ ってくる早潮の路でもあった。
馬のいななきは、おりおり、絶望的な訴えに聞こえる。敦盛は、そのたびに、
「南無三、ここでおぼれては」
と、鞍輿を逃がして、馬の背の重みを助けた。
内兜うちかぶと も濡れ、鎧の下にまで、海水がとお ってゆく。二月に初めの海である、五体はこごえ、手綱の手も、知覚を失いかけていた。
ふと、都にある恋人の白い容顔かんばせ が、くっきりと、胸に泛んでくる。 「あの君に笑われるような最期さいご は遂げたくない ──」 とするにわかな心支度と、死の恐怖とが、一波いつぱ のしぶき、一波のひらめきごとに、心の中で渦巻いた。
すると。 ── どこかで遠い声がした。 「おおういっ」 と、長く尾を引いて呼ぶときのあの声である。それは沖の海鳴りにも似、彼が後ろにして来た岸の松風のようでもあった。
「はて?」
耳を疑うらしく、敦盛は、兜の眉廂まびさし を沖へあげていた。
彼が目指している船は、ここに漂う味方の一騎を知らずにいるのか、かえりみている余裕もないのか、かえって、沖遠く過ぎかけていた。
そして、また、幾艘とのない船団のくずれが、大輪田や駒ヶ林方面から、おなじ水路を通っていったが、いずれも、屋島へ屋島へ、と心もそらに逃げ落ちてゆくみじめな敗軍の残影ざんえい でないものはない。
敦盛は、じんとまぶた を熱くして、
「あわれ、無残難味方の負けようかな。平家も今日までの末路か」
と、馬を泳がす必死な力も失いかけた。
それとともに、さっきから 「おうういっ。おうううい」 としきりに聞こえてくる声も、見方の船からでなかったことがようやく分かった。
「どこで、たれの呼ぶ声」
と、波間の姿は、しばし、迷うらしかった。
鍬形くわがた の兜の星が、キラと、陸地の方を振り向いた。
そして初めて、声の主を、その眸は知ったらしく、まばゆげなかげ内兜うちかぶと んも顔半分にえがいて、じっと、こなたを見すましている。
海面は、一瞬の間も、同じ色でいなかった。朝雲の歩みのままに、その光燿こうよう色相しきそう を刻々にへん じていた。
── 見れば、岸を後ろに、遠浅の果てまで迫ってきた一騎の武者が、鉄のような勇姿を、波光の中に、黒々とにじ ませていた。
片手に、軍扇ぐんせん をかざして、敦盛の姿へ向かって、執拗しつよう にまで、
「おおおいっ。返せ、返させ給え」
と、 ぶと いサビ声を、ふりしぼっていたのであった。

『新・平家物語(十一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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