〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/27 (水) 『新・平家物語 (十一)』 P−181 〜 P−184

およそ、全戦場の修羅しゅら 叫喚きょうかん は、こく ごろ (午前六時) 一せいに始まって、こく (午前十時) には、終わっていた。
── わずか、四時間少し。
若い人々、惜しい才能も、どれほど無残な犠牲となったことか。
数でいえば、平家方よりも、源氏の戦死傷者の方が、なぜか、はるかに多かった。
だが、源氏の武将も多く死んでいるが、たいらの 忠度ただのり のように、敵味方から惜しまれたような大将は死んでいない。
彼は、一ノ谷の主将だった。
思慮も、男四十一。公達中でも文武兼備な人といわれていた彼。敗れば、ぜひもないが、死を急ぐべきではない ── と思いつつも、刻々、彼のまわりも危険に ちていた。
明石口に出て戦い、梅ケ鼻で戦い、戦うたびに、見方の影の ってゆくのを煙の中に見て 「はや、これまで」 と、須磨すま の西の山に、人数をまとめ、
「一たんの敗北は、きょうの破れ、明日の日もまたあるものを。・・・・もう戦うだけは戦った。このうえは、駒ケ林から輪田ノ岬にあるたくさんな味方の船へ向かって馳けよう。 ── そして、主上に供奉ぐぶ し参らせ、ともあれ、屋島まで引き揚げん」
と、言い渡した。
そして、また、
「うかと、山を降らば、たちどころに、敵に押っとり囲まれよう。たがいに、かえりみするな。おのおの、よい道をとって、ましぐらにただ、船へと急げ」
と、励ました。
思い思い、馳け下って、磯道を走るもあり、遠道を、隠れ隠れに、駒ケ林の浜へ向かって落ちてゆく将士もあった。
「いざ、われらも行こう」
と、忠度は、残る人々を、あらためて、 に数えながら、
「経正殿の弟御、敦盛あつもり どのもおらるるよな」
と、呼んでみた。
「敦盛は、これにおりまする」
「おお、おられたの。・・・・兄君より陣に置いてとお頼みうけた和君わぎみ ぞ。忠度がそばを離れずに馳け続けてまいられよ」
「はい」
母衣ほろ のほもにや、解けたるひもが、太刀の柄にから みてみゆるぞ。落ち着いて、よい身支度も直されたがよい」
何かと、こま やかに気をつける。そして彼を先にニ、三十騎、山蔭を馳け出し、須磨すまうら を東へ急ぎかけた。
松ばかりな須磨ノ浦の、その松のすべてが武者と化したように、源氏の伏勢が、わっと、こぞり立った。
眼につく忠度の風貌ふうぼう だった。
熊野育ちの美丈夫である。黒糸おどしのよろい に、赤地あかじ にしき直垂ひたたれ 、白月毛の駒、遠雁とおがり の紋を打ったくら にまたがり、かぶと はかむらず烏帽子えぼし であったとは、古典のしるすところである。 ── 敵と見るや、戦うのを避けて、わざと、馬をサッと斜めに走らせ、なぎさ のしぶきを 立てて、伏勢の線を突き破った。
すると、その雪白な馬の尾へ、絡みつくように追っかけて行った五、六騎の源氏武者の一名が、
「やあ、待ち給え。よきおん大将と見奉るに、名のりも合わせ給わず、みぐるしき逃げなどいは何事ぞ。 ── これは九朗義経殿の旗のもとにて、武蔵国の岡部おかべ ろく 弥太やた 忠澄ただずみ と申す、東国きっての豪の者なり。お相手に不足はあるまじ。返せ、かえせ」
と、怒鳴った。

『新・平家物語(十一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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