肉体の苦痛にさらに別の厄災がつけ加わった。ヴェーゲラーは言っている。彼が知る限りにおいてベートーヴェンは絶え間なく恋愛の熱情につかまれていた、と。これらの恋愛は常にきわめて純潔なものであったようである。情熱と逸楽との間に何の関係もなかった。この両者を今日
の人々が混同して考えることは、大多数の人々が情熱というものについては実に無智なのだということおよび真の情熱はいかにも稀有の現象だということの証明に他ならない。 ベートーヴェンはその魂の中に清教徒的な或るものを持っていた。卑猥な思想や談話は彼を身顫いさせた。恋愛の聖性については強硬な考えを持っていた。モーツアルトが
『ドン・ジョヴァンニ』 を書いてその天才を濫用したことをベートーヴェンは赦さなかったといわれている。 彼の親友だったシントラーは確信している ── 「彼は一種の処女的な羞みをもって生涯を過ごし、弱点に負けて自己を責めるような羽目に陥ることは無かった」
と。しかもこんな人間が恋愛の情熱の、欺かれやすい犠牲となるのにはあつらえ向きにできていた。彼はまさにそういう犠牲であった。絶え間なく熱烈に恋心にとらわれ、絶え間なく恋の幸福を夢見ながら、たちまちその幸福の夢の果敢
なさを悟らされ、苦 い悲しみを味わさせられていた。 彼の天性の激しさがやがて憂鬱を帯びた諦めの静かさに行き着く年齢に達するときまでは、恋心とそれへの誇らしい反抗との交互作用の中にこそ、ベートーヴェンの霊感の最も強大な源泉が見出されるのである。
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