この悲劇的な悲しみは、その時期の幾つかの作品に現れている。 『悲愴奏鳴曲』
(作品十三番、1799年) の中に、またとりわけ作品十番 (1789年)
の、 「ピアノのための第三のソナータ』 の緩徐調
の中に。しかも、同じ時期のその他の作品、たとえば笑い声を立てている 『七重奏曲』 (1800年) や明朗 『第一交響曲』
(1800年) が少年の日ののどかさを反映しているということは ── すなわち同期の作の皆が皆まで悲痛の痕跡を留めているのではないということは、不思議なことである。 確かに魂が悲哀に馴れるまでには時間のかかるものである。魂は、それが歓喜を持たぬ時には自らそれを創
り出さねばならないほどに歓喜を必要とするものである。 現在があまりに辛
ければ、魂は過去の追憶によって生きる。過ぎた幸福の日々が一撃のもとに消滅しはしない。それらの日々の輝きはすでにそれらが無くなっている現在ににもなお永く残って照る続ける。 ヴィーンにいて孤独な不幸なベートーヴェンは生まれ故郷の追憶の中にその隠れ家を求めたのである。 当時の彼が音楽に示した思想はことごとく、そういう追憶が沁み込んでいる。『七重奏曲
』 中の 「変調するアンダンテ」 の主要旋律はライン地方の民謡
から来ている。 『第一交響曲』 もラインから生まれた作品であり、時分の回想のまぼろしに向かって微笑している若者の詩である。この交響曲は快活で憧れ心地に充ちている。そこには人を楽しませたい欲求と、楽しませ得るという希望ととが感じられるのである。しかし、ある楽節、たとえば導入節
や幽暗な或る低音 の明暗や幻想的なスケルツォーにおいて、われわれはもことに大きな感動を持って、やがて来るべき天才的精神のひらめきを、この若い姿の中に感取する!
それらのひらめきは、ボッティチェリの描いた 『聖家族』 の中の、幼児
キリストの眼の輝きである ── 早くも近づいて来ている悲劇を人がそこに確かに認め得るところの幼な児の眼の輝きである。 |