〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/25 (月) ベートーヴェンの生涯 (二)

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年十二月十六日に、ケルン市に近い、ライン河畔ボン市の貧しい家の見すぼらしい屋根裏部屋に生まれた。
先祖はフランドルの家系であった。彼の父は不聡明な、そしていつでも酒に酔っ払っている次中音テノール の歌唱者であった。母は召使級の婦人だった。料理人の娘であったが始めある部屋つき從僕ヴァン・ド・シャンブルと結婚してその夫に先立たれたのだった。
つらい子供時代 ── そこには、いっそう幸運なモーツアルトの幼時を取り巻いていたような家庭的な愛情の雰囲気が無かった。最初からすでに彼にとっては人生は悲しく冷酷な戦いとして示された。
父は彼の音楽の才能を利用して、神童の看板をくっつけて子供を食いものにしようとした。彼が四歳になると父は日に数時間も無理やりにクラヴサンを弾かせたり、ヴァイオリンを持たせて一室に閉じ込めておいたり、過度な音楽の勉強を強いた。
子供はもう少しで徹頭徹尾音楽が嫌いになるところだった。ベートーヴェンにそれを習わせるには暴力を用いねばならなかった。
少年時代は物質上の心配、パンを稼ぐ工面くめん 、 ── 年齢の割りにあまりにも早く課せられたそんな仕事のために憂鬱なものとなっていた。
十一歳のときに劇場のオーケストラの一員となり、十三歳でオルガン きとなった。
1787年には彼の大事な母が亡くなった。 「母は僕のためにほんとによい母、愛すべき母、僕の最良の友であった。お母さんという懐かしい名を僕が声に出して呼びかけることができ、またその呼びかけが聴かれていたあの頃の僕は、人間の中の最も幸福な人間であった。」
母は肺結核で亡くなった。そしてベートーヴェンも同じ病気に罹っていると思い込んでいた。彼の健康はすでに絶え間なく悩んでいた。そして彼は自分の病気にみずから憂鬱症を付け加え、実際の病状よりも憂鬱症の方がさらにひどかった。
十七歳の時一家のあるじ となり、二人の弟の教育の義務を負わされた。一家の主たる能力の無い、酒飲みの父を無理に隠退させ、父を差し置いて自分がその役を引き受けるということは、彼には恥ずかしいことだった。
父が受け取る年金を浪費してしまわないようにするために、父の年金が息子の手に支払われるようにした。
こんな様々の悲しみの痕はベートーヴェンの心に深く刻みつけられた。しかしその前に、彼はボンの一家庭の中に親切な支持を得た。それは彼に対してその後変わらぬ真情を持ち続けたブロイニングの家庭である。善良な優しい 「ロールヒェン」 エレノーレ・フォン・ブロイニングは彼より二歳年下としした であった。彼は彼女に音楽を教え、彼女は彼を詩の理解へみちびいた。
彼女は彼の少年時代の伴侶とも だった。二人の間に、優しい感情さえ生まれていたということもあり得なくはなかろう。エレノーレは後年、ベートーヴェンの親友の一人である医師ドクトル ヴェーゲラに嫁いだ。そしてベートーヴェンの生涯の最後の日に至るまで、三人の間には静穏な友誼が続いていた。
ヴェーゲラーとエレオノーレとの、価値のあるそして愛情のこもった手紙と、 「忠実な旧友」 alter treuer Freund から 「善きなつかしきヴェーゲラー」 guter lieber Wegeler への手紙とが、そのことを証明している。三人の間の愛情は、三人が共に年老いてしかも心情の若々しさを冷却させていないが故に、それだけますます感動的である。 

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ
Next