〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/25 (月) ベートーヴェンの生涯 (三)

ベートーヴェンの幼時がそんなに悲しいものであったにせよ、彼は常にその幼時に対して、またその幼時の日々が過ごされた幾多の場所に対して、優しさとメランコリーとの籠った追憶の思いを持ち続けていた。ボンを離れて、ほとんど全生涯をヴィーンで ── 軽佻なこの大都会とその陰気な場末で暮らさなければならなかったとはいえ、彼は、ラインの谷間を、威容のある父親らしい大河、彼がそう呼び慣れていた 「われらの父ライン」 unser Vater Rhein を決して忘れはしなかった。
実際この河はほとんど人間のように生きており、様々の思想や無数の精力がそこを横切る雄大な一つの魂に似ているのであるが、しかもラインは精美なボンの町においてこそ最も美しく強くかつ優しい。かげ と花々とに富んだこの町の幾多の丘の斜面を、ラインは愛撫する一つの力を持って浸しているのである。
そこで ベートーヴェンは生涯の初めの二十年を送った。そこで彼の若い心の様々の夢想は形成された。 ── 霧に包まれた白楊樹ポプラ やこんもりした茂みや柳の樹のある牧場は憧れ心を持って河の水を泳いでいるように見える。またその牧場の果樹は、無言な速い水流にその根を浸している。 ── そして水辺に、悠然たる好奇の心を持つ者のように身を差し出している村落と教会堂とそして墓場。そして地平には蒼い 「七つの峯ジーベンゲビルゲ」 がその重畳として変化の多い横顔を空に描き出しており、それらの峯の頂には、廃跡となった幾つかの古い城のさび しく奇妙な影絵が浮き出ている。
この土地に対して ベートーヴェンは変わらぬ真情を持ち続けた。ついに再びそこへ帰来するを得ることなしに、彼は最期の日に至るまでも、そこを再び見ることを夢みていたのである。
「ふるさとよ、美しい土地よ。この世の光をそこで初めて私が見たその国は、私の眼前に浮かんで常に美しく判然はっきり と見えている ── 私がそこを立ちいでた日の姿のままに」

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ