〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

2010/10/25 (月) ベートーヴェンの生涯 (一)

彼は広い肩幅を持ち力士のような骨組みであったが、背が低くてずんぐりしていた。顔は大きくて赭かった。ただし晩年に近づいてからは顔の色が病人じみた黄色味を帯びてきた。とりわけ冬、田園を歩くことが少なく、家に閉じ籠もって暮らさなければならなかった時にはなおさらそうであった。
額はがっしりと強く盛り上がっていた。はなはだ黒い、異常に厚い髪の毛 ── 櫛の歯がとうてい梳けなかったかのように見える髪の毛は、思いのままにあらゆる方向へ逆立って、まるで 「メヂューズの頭の蛇ども」 のようであった。
眼光が強い熱を持っていて、彼に逢った人は誰しもその力を感銘させられた。だがその瞳の色については多くの人々が思い違いをしたものである。陰鬱な悲劇的な相貌の中からほの暗い輝きを帯びてその瞳がきらめくときには瞳の色は黒だという印象を人々に与えたのであったが実はそれは青みを帯びた灰色なのであった。
その眼は小さく深く沈んでいたが、情熱や怒りに憑かれると突然大きく見ひらいて、内部のあらゆる考えを、みごとな誠実さをもって映し示すのであった。また、ときどきは、一種憂鬱な眼つきをもって天の方へ向けられた。
鼻は短くて角張っていて、大きかった。そして獅子の鼻先に似ていた。
口は精緻にできていた。しかし下唇が上のよりもやや突き出ている気味だった。
あご こそは、胡桃くるみ をも噛み砕きそうな強い顎であった。おとがい の、右へ片寄った深い凹みは、顔全体に一種奇妙な不均衡を与えていた。
モーシュレスが言っているが ── 「彼は親切な微笑わら いかたをした。そして人と話しているとき、時々愛情深く励ますような様子をした。その代わり、声を出す笑いときたら、不愉快な荒っぽい、しかつら の笑い方で、それはまたいつでもとぎれてしまう笑いであった」 ── それは悦ぶことの習慣を持たない人の笑いなのであった。
彼の習慣的な平素の表情は憂鬱メランコリー であった。 「医し難い悲しみ」 であった。
レルシュタープが1825年にいっている、ベートーヴェンの 「優しい眼と、その眼が示している深い悲しみ」 とを見て泣き出したくなったのを我慢するため一生懸命で感情を制御しなければならなかった、と。
ブラウン・フォン・ブラウンタールはその一年後に、あるビヤー・ホールでベートーヴェンに出会ったが、そのときベートーヴェンは片隅に坐って長いパイプで煙草を喫いながら眼をつぶっていた。
これは彼がしに近づくにつれて次第に募った彼の癖なのであった。
一人の友人が話しかけると彼は悲しげに微笑し、ポケットから小さな 「会話のための手帳」 を取り出した。そして、つんぼの人が出しがちな鋭い金切声を立てて言った、彼に話したいことを手帳に書いてくれ、と。
往来を歩いている彼に突然襲いかかって、通行人らをびっくりさせた急激な霊感の発作の時や、ピアノに向かっている彼に突如作曲の発想が生まれたような時、彼の顔は変貌するのであった。
「彼の顔面筋肉は緊張して盛り上がり、血管は膨れた。荒々しい眼は恐ろしい様子になり、口はブルブル震えていた。自分で呼び出した魔神デーモン たちの力に圧倒されている魔術師のような有様だった。」
まさにシェイクスピアの描いた一人物に似ていた。ユーリウス・ベネディクトは言った ── 「リア王だ」 と。

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ
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