〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/23 (土) 『新・平家物語 (十)』 P−345 〜 P−348

「口惜しくは思うが・・・・、この薄金うすがねよろい すら、今は身に重とうなった。何か、辺りの夕陽ゆうひ の色も眼に痛い心地ぞや。・・・・兼平、死期は近づいたとみゆる」
「何を仰せられる。三軍の将たるお方は、たとえ、どんな苦境に立とうが、みずから、もう駄目だなどと、軽々、お命を見限るものではありませぬ。── ここは兼平が防ぎますれば、殿には、先へお落ちなされませ」
「いや、あせっても、見も心も疲れ果てた。それに、いずこを見ても敵」
「やあ、ふがいないおん弱音。今日のいくさ に、討ち死にした味方はまだわずかです。樋口を始め、太夫坊覚明なども、君やいずこと、御生死を尋ねているやも知れません。もし、殿が北陸にありと分からば、続々、お慕いして参りましょうず。そこまでの御忍苦もなしえぬ弱大将でもありますまい。木曾谷ごろの駒主が面魂つらだましい は、今日どこへ失うてしまわれましたか」
兼平は切々と、歯がみして言っていたが、
「── オオ、かなたからまた、敵が見ゆる。殿、殿。今のうちに」
と、急き立てた。
そして、おお 長柄ながえやいば の平で、義仲の馬の尻を強くなぐ った。
馬は義仲を乗せたままつぶて のように飛んで行った。義仲は後ろ耳で聞いた。 ── そのあとに、わあっと揚がった喊声かんせい の嵐を。
振り返ると、夕陽の下に、真っ黒な一隊の鉄騎が、兼平一人を押っ取り囲んだらしく見える。
── その兼平は、なるべく敵を他へ誘おうとするらしく、一角を突き破ると、さらに遠くへ遠くへと、敵勢を引き込んで行った。小さいその一点の人影は、冥途よみ の府の溶鉱炉ようこうろ へ馳け込んで行くように、やがて、夕陽の果てへうす れてしまった。
義仲は、ただ一騎となった。一騎となればまた敵の眼も避けやすく、松原の木陰を縫いながらいこ い憩い北へ急いだ。
── と、意外にも、また前方の野に、武者の咆哮ほうこう が聞こえた。義仲は、道をかえようとしたが、ふと、自責に気も狂いそうになった。われも忘れて、 「こうなってまで、まだ戦っている味方は、そもたれか」 と、馬を向けた。
義仲の姿を知ると、そこの東国勢は、自分らの目を疑って叫びあった。
「あれよ、大将軍の装いは、まぎれもなき木曾殿ではないか」
「おう、義仲将軍ぞ」
「敵の総大将」
たちまち、旋風つむじ は向きを変えて、義仲一人へ当たってきた。
甲斐かい の一条次郎忠頼、土肥どひの 実平さねひら武蔵むさし のなにがしと、続々、呼ばわりかかって来た。
死闘する義仲の耳には、それらの名のり名のりも、ただ肉声の怒涛どとう としか聞こえない。けれど彼はふと、一人の味方の姿を、重囲の中に、はっきりと見た。
それは、黒髪長き女武者であったから、入り乱れる他の人馬とはすぐ見分けがついた。わけて白銀しろがね の天冠が、それを取り囲む坂東ばんどう 武者のあいだに、生命いのち の明滅を告げるかのごとくキラキラしているのが彼の眼を射た。

『新・平家物語(十)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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