〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/24 (日) 『新・平家物語 (十)』 P−348 〜 P−350

「おう、巴だっ。巴よ」
義仲の一と声は、彼がこれまでの数々な戦場で叫んだどんな場合の声よりも悲痛であった。
けれどおそらく巴の耳には、届くまい。
間断ない馬蹄ばてい のとどろきは、かなたの巴を追っかけ追いまわしつつ、また、義仲の姿をも捕捉ほそく していた。相寄ることなど、不可抗力であった。
── が、義仲の死力は、一方を突き破っていた、馬も人もない狂奔の影がただ一文字に飛んでいる。そして、馬にも人にも、針鼠はりねずみ のように矢が立った。
── やがて脚力の限界が来、馬の早さは、急に落ちていった。
── うす粟津あわづはら を、その影は、よろめきよろめき、北を指していた。かぶと の重さに、眉廂まびさし もうつ向きがちに、人も肩で息をし、駒も脚も、おぼつかなげに、 れに縒れて行く。
── ふと、彼の頭のしんに、何一つ物音もせず、まるで氷界ひょうかい のような空間が生じた。その痛いような耳の奥で、自分の名を呼ぶ巴の声だけがありあり聞こえた。聞こえるような気がしたのである。
「・・・・・・・」
義仲は、後ろを、振り向いた。
その眉、その眼もとは、すでに死相をおびている。仮面めん に見る夜叉やしゃ のような、あの青さをたたえていた。
「と、ともえ ・・・・」
くち は、呼ぼうとするが、もつれて、声も声にならない。
しかし、彼が生涯に呼んだあまたな女性の、どの名よりは、心から呼んだ真実の一と声ではあった。
するとそのとき、何かにつまずいて、彼の馬は泥田のなかへ落ち落ちこんだ。いや、それよりも、ひゅうっと飛んで来た矢が、喉笛のどぶえ から内兜うちかぶと を射抜いたことの方が早かったかもしれない。
いずれにせよ、がばと、大きな泥しぶきの音がした一瞬、さしもの木曾山の自然児、そしてわずかでも、 を都に占めた朝日あさひ 将軍しょうぐん 義仲よしなか は、三十一を末期として、生命を終わっていた。
深田の泥へ、横顔の半分までも埋めたままの彼の死に顔は、白い夕星の下に、すぐ、比良ひら の雪のような冷たいものに化していた。
それは、なんの怨念おんねん の影もなく、むしろ、課せられた宿業しゅくごう を解かれて安らいだもののように見えた。
── たたたと、たちまち、ここへ馳けて来る騎影きえい があり、すぐ飛び降りた一人の武者は、義仲の首を持って、泥田の中からはいあがると、魔の踊りのように、その首をさしあげて、体じゅうから怒鳴った。
「木曾殿の 首級しるし を、われ揚げたるぞ。── 相州三浦の住人、石田次郎為久、木曾将軍義仲殿のお首を取ったりっ。── 木曾殿をば、石田為久が討ちとったり」

『新・平家物語(十)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ