〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/08 (金) 『新・平家物語 (九)』 P−279 〜 P−282

おなじころ、かの経盛 つねもり が嫡子の、皇后 こうごう 宮亮 ぐうのすけ 経正 つねまさ も、西下の人びとにおくれて、従者五、六騎を連れ、仁和寺の御室 おむろ御所 ごしょ へいそいでいた。
経正は、八歳の頃に、仁和寺へ入れられて、十三歳の元服まで、稚児 ちご として、御室に仕えたことがある。
初歩の学業もここで受け、和歌、音楽、仏典などのしつけ も、すべて任和寺でまな びを受けた。 ── いわばここは彼の童心のふるさとであり、御室の宮は、師でもあり、里親さとおや にも似たお人なのである。
「なに、経正とな」
番僧たちは、門を討ちたたくおとず れに驚いて、奥へ馳せ、坊官ぼうかんつめ の者に、
夜来やらい 、都は、未曾有みぞう な異変の中にあるやにうかがわれまする。かかる中を、平家の客に門を開いてはいかがなもので」
と、すでに後日のたたりを恐れるような口吻こうふん でさしずを仰いだ。
木曾兵はまだ洛中に見えないまでも、その圧力は、洛外諸寺院へ、もう、じかに しかかって来ている。坊官も侍僧さむらいそう たちも、
「うかとは、門を開けられまいぞ。たとえ、修理大夫殿 (経盛) の御嫡子であろうとも」
と、かたずをのんで、ためらった。
すると、御室おむろ侍者じしゃ 、大納言の行慶ぎょうけい 法印ほういん が、この由を聞いて、そっと、宮の御意を伺った。
「むかし、稚児ちご としていた経正殿が、さいごのお暇にとて、 門側もんそく まで来ておりますが、どういたしましょうか」
すると、法親王は、
「経正が別れに来たか、時ならぬ時刻を思えば、なおさら、よくよくな思いと見ゆる。さしつかえない、内へ入れよ」
と、ゆるされた。
宮は、後白川の第二の皇子、守覚しゅかく 法親王ほっしんのう である。稚児の頃から今日まで、宮の御愛情にもお変わりなかった。何かにつけ目をかけておいでだったのである。
侍者の行慶法印は、ふたたび、御前にもどって、
「思し召しを申し伝えましたるに、経正殿は、涙ぐんで喜びましたが、甲冑かっちゅう をよろい、弓箭きゅうせんたい して、あらぬ様なる装いに候えば、御前にまか るも、はばか りなれと、なお、遠くに控えておりまする」
と、取り次いだ。
「あわれなる遠慮かな、ほかならぬ今の場合、日ごろの行儀ぎょうぎ はいらぬ。その姿のまま、ただ、まかれと申せ」
行慶は、宮のお言葉を、経正につたえ、ほどなく、彼をうしろに連れて、御座ぎょざ の間の前なる小坪こつぼ (小庭) にひかえさせた。
その日、経正の装いは、むらさき にしき のひたたれに、萌黄もえぎ にお いの鎧を着、姿のよい太刀をたい し、兜は脱いで背へ懸けていた。
重藤しげとう の弓を横に、ぬかずいていると、出御しゅつぎょ の声が高く揚がった。そして、
「経正か。よう見えた。これへ、これへ」
と、さし招くのは、まぎれもなく、なつかしいお方の声である。
「では、おゆるしを」 と、きざはし を上がって、経正は正面の大床おおゆか にあらためて座を賜り、さて ──
「行くては西海千里のかなた、またいつの日、お姿を拝しうるかどうかもわかりませぬ。すでに、みかどを始め奉り、一門落去らつきよ に混みおいておりますが、つかの間、お別れにさん じました」
と、多年の恩育を謝した。
そして、供の侍、藤兵衛尉有教の手から、赤地錦のふくろに入れた一面の琵琶を受け取って、うやうやしく、御前にさし置いた。
宮には 「何か?」 とご不審な面持ちで、彼の姿と、その品とへ、等分に御眼をみはられた。

『新・平家物語(九)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
Next