〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/09/11 (土) 『新・平家物語 (五)』 P−363 〜 P−365

やがて、主の俊寛は、ころを見て、
「山荘のことです。なんの調いもありませんが、粗餐そさん でも」
と、密談の終わったしお に、座景を変えた。
今日ばかりは誰も、われを忘れて、討議に熟したあとなので、高坏たかつき折敷おしき を前にすえられると、にわかに、空腹を思い出したものらしい。
そのせいもあったろうか、杯の数も重ねないうちに、もう、したたかな酔いを顔に発している者も多かった。
法皇にも、数献をおすごしになり、龍顔をあさらかに、涼夜りょうや嵐気らんき と灯影の明滅になぶ らせ給うて、しきりに、左右の臣と、おんむつ みであった。
自然、一同も、興に乗じ、覇気はきたか ぶらせれ、
「平家平家と、恐れるが、小松の内府 (重盛) は、近年、病がちだし、入道相国は、福原のみいて、とんと一門の内政さえ怠りがちという。・・・・そのはかでは、経盛、宗盛まど、人物は、格段に落ちるし、公達きんだち ばら とて、みな華奢きゃしゃ 風流ふうりゅう の真似びには賢げでも、これはと、優れてみゆる武将もおらん。── まず六波羅を焼き、西八条を陥し、北面の武者に、大和源氏の兵をああせ、数日を待てば、諸州のお味方が、続々、院へさん ずるはあきらかなこと」
と、四隣への気兼ねもなく、大言し合った。
成親も、それに、気勢を添えて言った。
「いま、初めて打ち明けるが、もし、院宣な発せられて、都の内に、六波羅攻めの火を見なば、真っ先に、御門へさん ぜんという有力な武門もある。 ── 老体の者ゆえ、そして、子弟や一族は、検非違使の要路や地方のかみ を勤めているので、わざとこの席には、召されておらぬが」
「え、それは、たれですか」
人びとは、眼や、きき耳をそろえて、成親を見た。
「いや、その者の望みと、固い約束によって、今はいえぬが、平家討滅の御旗が、仙洞に翻る日には分かる」
「洛内に住む武門ですか」
「されば、都の人」
「もちろん、源氏ですな」
「かの為義や義朝にも劣らぬ源氏の家すじである」
「はてのう?・・・・」 顔見合わせながら、人びとはいよいよはばかりもなく、
「さては、近衛河原」の頼政どのか。または、他の源氏か」
と、あれこれ、人名をあげて、酒の肴のように語り騒いだ。
すると、席の角座すみざ のいた、静憲法印が、
「あな、あさまし、天下のおん大事を、など、酒興には口走り給う。恐ろしさを知らぬ人かな」
と、一同の軽噪に眉をひそめた。
成親は、自分へ言われたように受け取って、さっと面を変えながら、
「恐ろしとは、平家のことか。法印の一言こそ、聞き捨てならぬ」
と、折敷おしき高坏たかつき の間をまたぎ、つと、静憲のそばへ行こうとした。
その弾みに、狩衣かりぎぬ の袖がかかって、らっきょうなり の素焼きの瓶子へいじ (酒とくり) が、ひっくり返った。

『新・平家物語(五)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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