ここに、大和源氏の一族で、多田
蔵人 行綱
という者がある。 摂津の多田の庄に住んでいた。 院の執事、新大納言成親は、 「行綱は、人にも忘れられ、世にも遇
わず、親は、摂津守であったにと、つねに不平をもっているそうです、いつかは、あの大和源氏を、御起用あるべきではございますまいか」 と、法王へ、進言していた。 その後、行綱は、ひそかに召され、幾たびか、夜陰に参院したりして、院中の謀議にあずかっていた。他日、事を挙げる日には、摂津の野に、大和源氏を糾合
して、真っ先に馳 せ参
ずべし、という誓いのもとに、 「これは、当座の弓袋
の代 ぞ」 と、成親を経て、お手もとの黄金や、布、巻絹、皮革などの軍費も拝領していた。 けれど、もともと大した勢力があるわけでもなく、保元、平治にも戦陣には出ず、余命を保って来ただけの男なので、内々、心のうちでは、 「待てよ。平家討伐などという画策が、そうやすやすと、成就しようか」 多分な危惧
を持っていた。 そうした彼の憶測では、どう、ひいき目に考えても、今の平家が、たおれるとは思われない。 たとえ、諸州へ、院宣を降
されようと、叡山の山法師にすら、軽んぜられる院宣では ── と、行綱はこのごろになっては、なお二の足を踏み、先に下賜された布、巻絹などは、家の子、郎党どもに分けて、直垂
や帷子 に裁ち縫わせ、 「家さえ富めば」 と、日和見主義を選んでしまった。 すると、成親から密書が来た。 (二十六日、鹿ケ谷へ
──) との寄合い状である。行綱はもとより何食わぬ顔をしてこの会議に臨んだのであった。かかる異端な人物がすでに内部にいたとも知らず、平家を倒す密議を計っていた人びとには、この
“二十六日” こそ、まことに宿命的な悪日であったというほかはない。 さて、その日、鹿ケ谷の山荘に集まった者は、たれたれじといえば、 新大納言成親。 近江中将入道蓮浄。 丹波少将成経。 西光法師。 平判官
康頼 。 故、少納言信西
の子息静憲 法印。 式部
大輔 正綱
。 新平判官資行。 山城守基兼。 宗
判官 信房
、など、 それに、多田蔵人行綱。 ── また、山荘の主、法勝寺の僧都
俊寛 は、いうまでもない。 いや、もうおひと方、重大な存在がある。 後白河法皇。 御座
をめぐって、こう、一味同腹のともがらが、うちそろったのはまれである。 院中では、しょせん、至難なことだった。げにや法皇にも、これらの人々を 「頼もしげなる者どもよ」
とみそなわせたことであろう。 所は、鹿ケ谷、簾
や蔀 を閉
てこめて、声を密 め合う気わずらいもなく、青い峰風は、山荘の廊や間ごとを吹き抜けてゆく。 この日、こんな所で、平家転覆
の秘謀がささやかれていようとは、洛内数万戸の屋根も、夢の夢、気づくことではなかった。 終日
の凝議 の末、 「──
事を挙げるは、今ぞ」 「今をおいてはあるまい」 という意見が、中核をなした。それに伴う、院宣の趣旨、軍兵の糾合、編制、作戦など、灯ともしごろまで、おのおのが意見を述べたり、検討したり、倦
み飽かぬ気色であった。 法皇のかかる思し召しは、根深く、年久しいものである。が、かくも急速に決せられたのはなぜか。いうまでもなく、今ならば、軍勢をかり催しても、平家方では
「院の山門攻めよ」 として怪しみもせず、見過ごすに違いない。 ── という時局と世情と、また敵方の油断とを巧みに織り入れた御機略なのであった。 |