〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/09/10 (金) 『新・平家物語 (五)』 P−360 〜 P−363

ここに、大和源氏の一族で、多田ただの 蔵人ころうど 行綱ゆきつな という者がある。
摂津の多田の庄に住んでいた。
院の執事、新大納言成親は、
「行綱は、人にも忘れられ、世にも わず、親は、摂津守であったにと、つねに不平をもっているそうです、いつかは、あの大和源氏を、御起用あるべきではございますまいか」
と、法王へ、進言していた。
その後、行綱は、ひそかに召され、幾たびか、夜陰に参院したりして、院中の謀議にあずかっていた。他日、事を挙げる日には、摂津の野に、大和源氏を糾合きゅうごう して、真っ先にさん ずべし、という誓いのもとに、
「これは、当座の弓袋ゆみぶくろしろ ぞ」
と、成親を経て、お手もとの黄金や、布、巻絹、皮革などの軍費も拝領していた。
けれど、もともと大した勢力があるわけでもなく、保元、平治にも戦陣には出ず、余命を保って来ただけの男なので、内々、心のうちでは、
「待てよ。平家討伐などという画策が、そうやすやすと、成就しようか」
多分な危惧きぐ を持っていた。
そうした彼の憶測では、どう、ひいき目に考えても、今の平家が、たおれるとは思われない。
たとえ、諸州へ、院宣をくだ されようと、叡山の山法師にすら、軽んぜられる院宣では ── と、行綱はこのごろになっては、なお二の足を踏み、先に下賜された布、巻絹などは、家の子、郎党どもに分けて、直垂ひたたれ帷子かたびら に裁ち縫わせ、
「家さえ富めば」
と、日和見主義を選んでしまった。
すると、成親から密書が来た。
(二十六日、鹿ケ谷へ ──)
との寄合い状である。行綱はもとより何食わぬ顔をしてこの会議に臨んだのであった。かかる異端な人物がすでに内部にいたとも知らず、平家を倒す密議を計っていた人びとには、この “二十六日” こそ、まことに宿命的な悪日であったというほかはない。
さて、その日、鹿ケ谷の山荘に集まった者は、たれたれじといえば、
新大納言成親。
近江中将入道蓮浄。
丹波少将成経。
西光法師。
平判官へいほうがん 康頼やすより
故、少納言信西しんぜい の子息静憲じょうけん 法印。
式部しきぶの 大輔たいふ 正綱まさつな
新平判官資行。
山城守基兼。
そうの 判官ほうがん 信房のぶふさ 、など、
それに、多田蔵人行綱。 ── また、山荘の主、法勝寺の僧都そうず 俊寛しゅんかん は、いうまでもない。
いや、もうおひと方、重大な存在がある。
後白河法皇。
御座ぎょざ をめぐって、こう、一味同腹のともがらが、うちそろったのはまれである。
院中では、しょせん、至難なことだった。げにや法皇にも、これらの人々を 「頼もしげなる者どもよ」 とみそなわせたことであろう。
所は、鹿ケ谷、しとみ てこめて、声をひそ め合う気わずらいもなく、青い峰風は、山荘の廊や間ごとを吹き抜けてゆく。
この日、こんな所で、平家転覆てんぷく の秘謀がささやかれていようとは、洛内数万戸の屋根も、夢の夢、気づくことではなかった。
終日ひねもす凝議ぎょうぎ の末、
「── 事を挙げるは、今ぞ」
「今をおいてはあるまい」
という意見が、中核をなした。それに伴う、院宣の趣旨、軍兵の糾合、編制、作戦など、灯ともしごろまで、おのおのが意見を述べたり、検討したり、 み飽かぬ気色であった。
法皇のかかる思し召しは、根深く、年久しいものである。が、かくも急速に決せられたのはなぜか。いうまでもなく、今ならば、軍勢をかり催しても、平家方では 「院の山門攻めよ」 として怪しみもせず、見過ごすに違いない。 ── という時局と世情と、また敵方の油断とを巧みに織り入れた御機略なのであった。

『新・平家物語(五)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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