〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/09/10 (金) 『新・平家物語 (五)』 P−357 〜 P−360

都のはず鹿ししだに は、東山の一峰、如意嶽の山ふところで、加茂川へそそぐ白川のみなかみ、楼ノ門滝も、その谷あいである。
法勝寺ほっつしょうじ執行しゅぎょう俊寛しゅんかん 僧都そうず は、鹿ケ谷に山荘 (別宅) をもっていた。
裏山を越えれば、近江の三井寺道へ続き、西北は洛中洛外をひと目に俯瞰ふかん できる。
そして、あたりは幽翠ゆうすい だし風致も申し分ないが、おそらく、不便はひと通りではあるまい。
もともとここは、俊寛の祖父、げん 大納言だいなごん 雅俊まさとし が、隠居所に建てたのを次に、僧都の父、木寺もくじの 法印ほういん 寛雅かんが が、、歌よみなので、よく歌の会などには、使っていたものだった。
── けれど、俊寛は、まだ四十がらみの屈強だし ── それに父のような風流気もない。
常の住居は、岡崎の仁王小路にある。
仁王門の内のだい 遮那しゃな を、法勝寺ともいい、彼はそこの寺務執行を勤めていた。
地方には寺田じでん 八十ヶ所もあり、封戸ふご の雑務やら人事、財政など、忙しい体であったらしいが、所従しょじゅう眷族けんぞく 四、五百人の上に立っていたというから、もってその生活ぶりも、へたな公卿や武門以上なものであったことが分かろう。
仁王小路の家には、よき妻も居、息女むすめ もある。
(何が、御不足で)
と、人は思うであろうが、その俊寛にも、なおこの上にもの野望があった。
つねに親しい丹波少将成経や西光法師などの手引きもあり、また、院と寺との関係もあって、いつか後白河法皇に近づき参らせ、法王からも、なみなみならぬ眷顧けんこ を給わっていた。
もう数年来のことである。
とかくして、院中の “半平家くつ ” の中で、彼も、人いちばい激語を吐く有力な一人になっていた。
そればかりでない。
鹿ケ谷の山荘を、一味の人々の密議場所にあて、風雅の会にことよせては、たびたびここに寄りあった。
ここは都に近くて、都に遠い。
人目しげき院中とちがい、どんな人物を加えても、また、蜜語のもれるおそ れはないので、ついには、後白河法皇も、幾たびとなく、お忍びで、渡られた。
中宮滋子しげこ御願ぎょがん に建てた最勝光院は近いので、そこに供人よもびと をとどめ給い、あとは箱輿はこごし に召されて、山路をお通いになった。情熱の余りとはいえ、ずいぶん大胆な御行動ではあった。
たとえば。 ── つい数日前の二十六日、
院の諸門を閉じ、東門には北面の守りを立たせて、表向き、
仙洞せんどう 、御病気・・・・)
と称え、かの武蔵坊の自訴も、また、池大納言の院參も、すべての出入りに対して、同様な寂莫じゃくまく を示していた日も、 ── なんぞはからん ── 法王には、鹿ケ谷へ微行しておられたのであった。
この数日の世間では、よりよりに、
「院の山門攻めは、必定であろう」
明雲みょううん 座主ざす の身や、山門の反逆行為を、よも、不問にはおかれまい」
「御軍勢のお催しは、いつか」
まどと、しきりな臆説もあり、法王御不予などのうわさも交じって、院と山門との衝突の成り行きを、どうなることかと、みな案じていた。 ── そうした微妙このうえもない今は時局下なのである。
しかし、法王の御方寸としては、機微このうえもない 「時」 なればこそ、あえて事を進め、秘密会合にまで臨まれたのであろう。
政略に自負のお強い法王は、兵略にも、深いお考えと自信を持っている。人心の機微を縫い、人心が外へ れているうちに、積年の宿志をお遂げになろうとしたものに違いない。

『新・平家物語(五)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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