「・・・・?」 ぎょつと、肩すじを寒くして、彼女は身を硬めてしまった。何か、触ったものがある。しかも体温があまり柔軟な感触だった。きゃつと叫びたいような恐怖につき抜けられながら、 「・・・た、たれですか」 蓬は思わず、後ろへ跳び退
いていた。 すると、壁のすそから、動物的な弾
みを起こして、 「もしっ・・・・」 と、いきなり抱きついて来た者がある。 黒髪と黒髪、顔と顔とが触れ合った瞬間、相手は必死な力で、蓬のからだを、なおひしと抱きしめながら、 「は、母君か」 と、体じゅうの声を、無理に、低く絞っていう。 「・・・・おお、もしや、あなたは」 「牛若ですっ。牛若です・・・・母君」 「和子様か、わたくしはちがう。──
ちがいます。わたくしはちがう」 突然、狂喜したようにいう蓬であった。同じ言葉を繰り返したり、顔を振ったり、どうしてよいか分からないように、手を忙しく動かしたりした。そして彼女もまた、体じゅうの声を絞って叫びたいものに繰り返されている。けれど、たった今、目に見たばかりの六波羅兵の顔が、その衝動を抑止していた。──
しかも、牛若の手は、無性に、しがみついたまま、彼女を離さないし、彼女は、放して、奥へ告げようと焦心
るのだった。 何かに、肩をぶつけて、彼女はよろめいた。暗さもなくまた馳けた。 「・・・・常盤様、常盤様、わ、わこ様が」 息が乱れて、それしか言えない。 いや、外の耳が恐ろしくもあったのだ。蓬は歯の根のふるえが止まらなかった。さきの番兵の六感はまさしく中
たっていたのである。
蓬は、自分以上にも、きっと取り乱すであろうと思っていた御方が、そう知ったせつなも、水のように 「そう・・・・」 と言ったきり、かえって、人なきようにさえ、しいんとしておられるままなのが、なんとも不思議にたえなかった。 「常盤様、お待ち遊ばせ、ただ今、お明りを点
しますゆえ」 暗さのためかと、蓬は思った。 すると常盤は、聞き取れぬほど低い声で、 「ア、およし・・・・今ごろ、灯影をもらしたら、番の者に、疑われように」
と、言った。 「ごもっともでございます。けれど・・・・微かならば」 「いいえ、突然、わが子の姿を眼で見たら、どんな気持になるであろうか。われとわが心も怖ろしゅうて、俄かには、見られもしませぬ・・・・ああ、夢ではなく、とうとうここへ来やったか」 「・・・・」 「牛若は、どこにいてぞ」 「こ、こ、ここです、母君」 どこかのやみが、しゅくしゅく泣いた。遠くではない。体と体の温かさが感じ合える。 「・・・・・」 夜半ごろよりあらしはよほど弱まっていたが、なお屋をつつむ風雨の声は、ここにいる三人の涙と官能の咽びのようであった。
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