〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/09/08 (水) 『新・平家物語 (四)』 P−346 〜 P−348

「・・・・?」
ぎょつと、肩すじを寒くして、彼女は身を硬めてしまった。何か、触ったものがある。しかも体温があまり柔軟な感触だった。きゃつと叫びたいような恐怖につき抜けられながら、
「・・・た、たれですか」
蓬は思わず、後ろへ跳び退 いていた。
すると、壁のすそから、動物的なはず みを起こして、
「もしっ・・・・」
と、いきなり抱きついて来た者がある。
黒髪と黒髪、顔と顔とが触れ合った瞬間、相手は必死な力で、蓬のからだを、なおひしと抱きしめながら、
「は、母君か」
と、体じゅうの声を、無理に、低く絞っていう。
「・・・・おお、もしや、あなたは」
「牛若ですっ。牛若です・・・・母君」
「和子様か、わたくしはちがう。── ちがいます。わたくしはちがう」
突然、狂喜したようにいう蓬であった。同じ言葉を繰り返したり、顔を振ったり、どうしてよいか分からないように、手を忙しく動かしたりした。そして彼女もまた、体じゅうの声を絞って叫びたいものに繰り返されている。けれど、たった今、目に見たばかりの六波羅兵の顔が、その衝動を抑止していた。── しかも、牛若の手は、無性に、しがみついたまま、彼女を離さないし、彼女は、放して、奥へ告げようと焦心あせ るのだった。
何かに、肩をぶつけて、彼女はよろめいた。暗さもなくまた馳けた。
「・・・・常盤様、常盤様、わ、わこ様が」
息が乱れて、それしか言えない。
いや、外の耳が恐ろしくもあったのだ。蓬は歯の根のふるえが止まらなかった。さきの番兵の六感はまさしく たっていたのである。

蓬は、自分以上にも、きっと取り乱すであろうと思っていた御方が、そう知ったせつなも、水のように 「そう・・・・」 と言ったきり、かえって、人なきようにさえ、しいんとしておられるままなのが、なんとも不思議にたえなかった。
「常盤様、お待ち遊ばせ、ただ今、お明りをとも しますゆえ」
暗さのためかと、蓬は思った。
すると常盤は、聞き取れぬほど低い声で、
「ア、およし・・・・今ごろ、灯影をもらしたら、番の者に、疑われように」 と、言った。
「ごもっともでございます。けれど・・・・微かならば」
「いいえ、突然、わが子の姿を眼で見たら、どんな気持になるであろうか。われとわが心も怖ろしゅうて、俄かには、見られもしませぬ・・・・ああ、夢ではなく、とうとうここへ来やったか」
「・・・・」
「牛若は、どこにいてぞ」
「こ、こ、ここです、母君」
どこかのやみが、しゅくしゅく泣いた。遠くではない。体と体の温かさが感じ合える。
「・・・・・」
夜半ごろよりあらしはよほど弱まっていたが、なお屋をつつむ風雨の声は、ここにいる三人の涙と官能の咽びのようであった。

『新・平家物語(四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
Next