〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/08/31 (火) 『新・平家物語 (四)』 P−116 〜 P−118

おりふし清盛は、つれづれにいたときと見える。侍者の取次ぎに、ふと好奇に誘われた眼いろを見せた。けれど、相国の権威をかえりみて、大いに怒った。
遊女あそびめ づれが、招きもせぬのに、押かけがましく、なんの推参ぞ、追い返せ、そんな者は」
すると、そばにいた妓王がなだめた。
「いいえ、遊び者の推参は、常の慣です。御門を軽んじてのことではありません。いま伺えば、年ばえもまだ幼い者のようですから、素気すげ のうお返し遊ばされては、どんなに恥ずかしく、打ちしお れることでございましょう。妓王の身にも覚えがあります。不愍ふびん と思し召して、せめて、おゆか さきまでなりと、通してあげてくださいませ」
「うむ、和御前わごぜ が、それほどにいうならば。・・・・ひとつ、見てやるか」
ほとけ は、いちど追われて、すごすごと、門前から車を返しかけていたが、呼び戻された。そして、まばゆい深殿しんでん に引かれ、清盛らしい人や、近習たちの並み居る一間を、遠くのように見て、かしこ まった。
近習の一名が、彼女へ言った。
「仏とやら、そなたは、倖せ者ぞよ。かく、太政殿だじょうどの御見ぎょけん に入るなど、あり得ないことだが、ここに在せられる妓王どのが、不愍ふびん よ、召させ給えと、しきりに、相国しょうこく へおすがり遊ばしたので、さらばと、破格なお許しが出たのであった。 ── なんぞ、今様いまよう なりと歌うて、御興ごきょう におこたえ申すがよい」
「はい。・・・・」 と、仏は一礼した。
そうして顔を上げると、妓王の方へ、ひとみ をこめて、彼女の情けを、心から感謝した。
妓王もじっと見守っていた。 ── 十六、その年ごろの自分が思い出されていたにちがいない。

君を初めて見るおり
千代も経ぬべし姫小松
お前の池なる亀岡に
鶴こそ 群れゐて遊ぶめれ
仏は、三べん歌い返した。
歌詞も、口もとも、あどけないものであったが、天性の美音であった。池泉ちせん のせせらぎも止むかと思われるほど、しいんと、澄み通って聞こえた。そしていつまでも、人々の耳に、余韻の快さを残した。
「さても、わごぜは、今様いまよう上手じょうず よ。舞は一しおであろうず。たれぞ、鼓を打て。仏の舞を一番見ようよ」
清盛はにわかに興じ出した。
仏は、 「うけたまわ って候う ── 」 と立って、あで やかに、舞いすました。
舞こそ、彼女が得意であり天稟てんびん のものである。舞っているうちの彼女は、十六の乙女とも見えなかった。どんな後宮の美姫よりも気高けだか くて、しかも美しさに威厳があった。芸術の迫力というか、気品というか、近づき難い魅力が辺りを払うのであった。
清盛は神妙に見入っていた。恍惚こうこつ という顔つきである ── が、見ているうちに、彼は、近づき難いもの ── 威厳のある美に ── 何か、むらむらと、むし り散らしたいような、およそ美や威厳にとっては、異端なうず きに かれていた。
「いや、おもしろい。思いのほか、興があったぞ。仏とやらに、杯をやろう。それよ、庭面も秋めいて来た。杯を持ちながら、仏の舞を、もう一さし見ようよ。泉殿へ、席を移せ」
『新・平家物語(四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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