〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/08/25 (水) 『新・平家物語 (三)』 P−160〜P−164

花の上の 月はあまりの はかな さに  声うちあげて 泣きたくぞおもふ
孤独というよりは、もっと空しい寂寥せきりょう である。それにじっと堪えている魂が、嗚咽おえつ のように、つぶやいた。
ひとの古歌が思い出されたのか、自分の突き詰めた思いが歌の形をとってむせ び出たものか、常盤の胸はいま、そうしたけじめも、風雅ふうが も持たない。
ただ、ふと、吐息の下に口ずさんだだけである。
かの女は、ここの女房部屋の窓に、もたれたまま、身じろぎもせず、外のおぼろ にむかって、春の夜を、うつろにいた。
今若いまわか は、どうぢたろう。乙若おとわか は、人に ついているだろうか。
母を離れて、鞍馬くらま の上へ、人に抱かれて去った牛若うしわか は、どう育って行くだろうか。
(── 親はなくても子は育つ)
誰かが言った言葉が、どうか真理であってくれればよい。かの女はそう祈りながら、また、その言葉の持つ底冷たい世間の常識がうらめしくもなった。子をもぎ取られてうつろ になった孤母のすがたを自分に見て、
(もう、どうしよう)
と、生きる力も失った。
こい せのうつろな人のことをよく "空蝉うつせみ の君" と言ったりするが、乳房や添い寝の子を幾たりも一次に奪われた母の虚脱は、それとはくら べようもないむな しさである。
また、意地悪く、牛若が山へ送られてから、乳も れるほど張ってきた。余りに乳房のうず きを らせたせいか、乳房にゅうぼう から全身にねつ をおこし、それに母として、三人の子の命が、とにかく救われたという安心も手伝って、幾日か、病床についてしまった日もある。
そんな時、ここの屋敷の主の伊藤五景綱は、
「万一、長引くようなやまい にでもなっては、六波羅殿へ対してもおそれあり」
と、医師を迎え、薬餌やくじ や手当てにも怠りなく、常盤の容態といえば、ひと方ならぬ気づかいを示すのだった。
なんで、景綱をはじめ、召使までが、自分をそのように大切にするのか、常盤には、それも分かっていた。よく分かっているだけに、
(もう、どうしよう)
と、そのことにも、生きるのが恥のように、おののくのだった。
この女房部屋の見張りの役を兼ねて、常盤の身のまわりに仕えている老女は、ある日の世間話に、こんなこともささやいた。
「ちまたでは、みな、あなた様のことを、たた えておりますよ。 ── みさお を守るだけが何も貞女ではない、常盤ときわ 御前ごぜ のように、操を捨てて子を救ったのも、たぐい のない貞女よ、立派な女の道よと、みないうのでございます」
また、景綱の妻も、ある日、そっと見舞いに来て、
「世には、六波羅殿のお目にとまって、ご寵愛ちょうあい を受けたいと、心ひそかに、眉目みめよそお女性にょしょう は、どれほど多いか知れますまい。── それを思えば、あなたは、なんというお幸せか知れません。よほどいい月日の下に生まれ合わせたのでしょう。もう、なにごともクヨクヨしないで、せいぜい美しくお飾り遊ばせよ。ほんにお若いのですもの。女の盛りは、これからです。そのうえ、六波羅殿のおも われびと となれば、どんな栄花えいが だって、望めないことはありません」
と言ったりした。
常盤は、身をちぢめて、えりもとまで羞恥しゅうち に染まりながら、袖の裏に顔を隠して聞いていた。耳をふさぎたいような母性の理知と、氷の池みたいに堅くしている貞操の意志の底を、ふと、春の陽射しに、意地悪くのぞかれているような気持ちに、なぶ られるのであった。
とにかく。
人はみな一様に、清盛は、事前に、常盤のからだを自由にした。そして、常盤も、身をゆるした。だから聴かれないはずの願いも、聴き届けられたのだと、きめてかかっているのである。
ところが、そんな事実は、二人の間には、まだなかった。
清盛に凡夫の野心が、潜んでいたのは争えない。けれど、政治と、貞操とを、交換条件にして、無力な寡婦かふ を、むりに口説き伏せたというような説は、周囲の憶測おくそく であり、ちまたの捏造ねつぞう である。清盛には、身に覚えがあるまい。
すべて、そういう 「清盛的性格」 は、平家滅亡後に、鎌倉期の筆者が、作り上げたものである。 もとより多分に、彼も、凡夫ではあり、多情多血であり、また権力をふるった時代型の人間にはちがいなかったが、常盤との関係は、余りにも、ゆがめられすぎている。
なにぶん、後の鎌倉幕府たる頼朝の治下になっては、義経の生母である常盤と清盛との関係は、あんなふうに書かなければ、具合が悪かったのであろう。
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『新・平家物語(三)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ