たれか、うしろに、人が立ったような気
はいである。常盤はそれを感じないではないが、窓を離れるのは恐
かった。波にされわれまいとして岩にすがっている磯藻
のように、窓によっていた。 「常盤。・・・・何を見ているのか」 やはり、清盛の声であった。 「花を見ています」 と、そのまま答えた。 外の、花明かりに、そこはかとなく、部屋の内は、ほの明るい。清盛は、やがてすわって、ひとり黙りこくっていた。 常盤も、いつまでも窓にいた。 灯の消えていたことが、偶然、二人には倖せした。いつものように、身を硬
め合うて、涙をそむけたり、息をつめて、横顔と横顔と突き合わせている苦しさもない。 清盛が、おりおり、ここへ通い始めたのは、三人の子の処分を明らかにした後である。その前とても、べつに、なんの約束があったわけでもないから、常盤が、 (人目もあります。世間のうわさも、うるそうございます。どうか、ここへは来て下さいますな) と、断
れば、断り得ないわけではない。 清盛の寛大な処置を、恩とは感じ、情けとはうけても、女の自由は、なお彼女の意志のものである。取りかえてもいなければ、奪われてもいないのである。 けれど常盤には、もうその人へ向って、その人の心を傷
つけるようなことは言えなくなっていた。厭
う気持ちよりは、心待ちに待つような心理が、いつか彼女を支配していた。 (あさましや、わが夫
、義朝殿を亡 ぼした仇人
を) とみずから、おぞ気をふるって、自分へいい聞かせてはみても、運命の自然な歩みとその環境に伴って、新たな日に適応してゆく心の必然は、否みようもなく、彼女のうちに、彼女も気づかない、変わりかたをいつかしていた。 「・・・・お、夜風に、机の反古
が飛んでいる」 清盛は、壁代
の下へ手をのばした。そしてその紙片を、文机の上へもどす前に、ふと、おぼつかない花明かりをたよりに、読みかけた。 |
すゑ知れぬ 霞
の野べの 道とても 分けゆくままに かぎりこそあれ |
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やっと読み判じられた時、常盤も気づいて、 「あれ、それは」 と、あわてて、彼のそばへ、寄って来た。そして、返して欲しい表情をこめて、なお、すり寄った。 「見てはいけない物か」 「いいえ、べつに」 「これは、そなたの筆ではない、たれから来た消息なのか」 「・・・・・・・・・」 「男文字のようでもあるし」 「・・・・・・・・・」 常盤は、答えに困った。 消息ではない、ただの歌反古だといい抜けようにも、折り目が明かだし、また、たしかに、便りの主は男である。 「え、仰っしゃる通り、私の歌ではありません。なんですか、街を歩いていたおかしな僧侶
が、これを常盤御前に渡せといって、蓬子
の手にあずけて行ってしもうたとか」 「蓬子とは」 「以前、子たちの守
をさせていた召使の女童
です。大和の隠れ家に、わざと残して来ましたのに、なお、和子たちやわたくしを慕い、尋ね尋ねて、ここを訪うて参りました。 ── その蓬子が、道で逢うたお坊さまから預かったと申して持って来たのです」 「では、その僧侶は、たれなのか、分かっているはずではないか。そなたの女童
と知らぬ者が、そなたへ、歌の言を、頼むわけもないからな」 「親しくはありませんが、保元の合戦の時、柳ノ水の、あの焼き払われた御所の跡へ、小屋を掛けていた乞食
のようなお坊さまと申しました」 「・・・・名は」 「文覚
とか」 「あ、あの盛遠か」 清盛は、もいちど、文字を見直した。なんのこと、よく見れば、折り目の端に ── もんがく ── と墨うすく、しかし筆鋒
のあらい仮名文字も読まれるのであった。 |
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『新・平家物語(三)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ
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