兵庫は、見捨てられた。
開港早々、京都の新政府の兵庫行政を受け持つべくやって来たのは、長州出身の伊藤博文 (当時二十七歳、俊
介
と称していた) であった。四ヶ月のちに兵庫県知事になるが、最初の職名は外国事務掛で、 「兵庫奉行ノ事務ヲ管掌セシム」
という辞令である。
彼の庁舎は、旧幕時代、大坂奉行所の与力一騎が執務していた勤番所で、狭すぎて役に立たなかった。さらには、神戸村に出来た運上所
(税関) や居留地から遠すぎる。移転すべく、神戸村に近い坂本村に地所を求めたところ、兵庫の名主
・年寄
らが協議し、これでは兵庫が廃
れてしまう、となげいた。彼らの言うところは、明治三十一年刊の 『神戸開港三十年史』 によると、
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