〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/07/29 (木) 神戸散歩 生田川 (三)

兵庫は、見捨てられた。
開港早々、京都の新政府の兵庫行政を受け持つべくやって来たのは、長州出身の伊藤博文 (当時二十七歳、 と称していた) であった。四ヶ月のちに兵庫県知事になるが、最初の職名は外国事務掛で、 「兵庫奉行ノ事務ヲ管掌セシム」 という辞令である。
彼の庁舎は、旧幕時代、大坂奉行所の与力一騎が執務していた勤番所で、狭すぎて役に立たなかった。さらには、神戸村に出来た運上所 (税関) や居留地から遠すぎる。移転すべく、神戸村に近い坂本村に地所を求めたところ、兵庫の名主なぬし年寄としより らが協議し、これでは兵庫がすた れてしまう、となげいた。彼らの言うところは、明治三十一年刊の 『神戸開港三十年史』 によると、

「兵庫開港と称し、兵庫県と云ふ、而して県庁を兵庫以外に転ずるはすこぶ る名実に反するをおぼ ふ・・・・新庁舎建築の地を、兵庫に相することを請はんと欲す」。
とあるが、取り上げられなかった。工事が請負人に発注されたのは明治元年六月十二日である。この時、旧幕時代、はるか蝦夷えぞ までゆく北前船きたまえせん などの商港としての栄光を築いた 「兵庫」 が決定的に衰退し、代わって 「神戸」 がこの一帯の港とまちを代表する呼称になったと言っていい。同時に、江戸期の大坂の商権から独立したともいえる。神戸は、神戸にとって縁起のいい名前になった。

ここに、旧幕時代のおたず ね者が、登場する。
兵庫県庁にとっての最初の土木事業は、県庁を建てるほかに二つあった。旧幕府からひきついだ居留地の敷地固めの土木工事を継続せねばならず、また開港場という金の落ちやすい土地をねらって虞犯ぐはん 性の高い連中が流入してくるため、早々に監獄をつくらねばならなかった。
加納かのう 宗七そうしち (1827〜87) は、旧幕府にとっての政治犯であったが、当の幕府が倒れたために、政府の牢に入る必要がなかった。
彼は紀州人であった。和歌山城下の御用商人宮本助七の次男として生まれ、幕末、とびだして志士仲間に入っていた。紀州脱藩陸奥宗光を頼ったのかと思える。陸奥は、坂本竜馬が長崎でやっていた浪士結社海援隊の有力メンバーで、坂本が大政奉還の工作のために京都で奔走していた時は、その秘書のような仕事をしていた。
坂本は、神戸 (兵庫) 開港の一ヶ月半前に大政奉還を成功させ、その半月後に暗殺された。
残された陸奥は復讐を誓った。彼の想像では ── まったくの想像だが ── この事件は紀州藩重役の三浦休太郎が新撰組をそそのかしてやったものと見、三浦を付け狙った。三浦こそ災難だったろう。
十二月七日、陸奥は、三浦が新撰組の幹部と酒を飲んでいることを知った。場所は油小路花屋下ル西側の旅籠はたご 天満屋で、酒宴の最中に座敷に躍り込むことにした。夜九時ごろ、同志十数人とともにのちの時代劇そのままに斬り込みをやってのけた。斬り込んだ同志には、明治の知名人もいる。岩村高俊、大江卓 (斎藤治一郎) らで、そういう知名人にはならなかったが、町人あがりの加納宗七もいた。
だれもが書生で、新撰組のようなそれ・・ 専門の連中に むかうのは、無理だった。新撰組側には土方ひじかた 歳三としぞう もいた。たちまち斬りたてられて逃げざるを得なかった。
天満屋事件は、神戸開港の日である。
加納宗七は事件後、京を逐電ちくでん し、居留地造成のためのごったがえしている神戸村に来て潜伏した。数日して鳥羽・伏見における戦の薩長側の勝利で、天下がくつがえった。
加納は晴れて神戸で商売をやった。
紀州人は、生まれながらの木材商であり、また天賦の船乗りか、廻船業者であるといっていいが、彼は居留地に接近した西町で材木商を営んだ。無限に材木の需要があるだろうと見たのが、あた った。
元志士ということで、県庁にも顔がきいたであろう。
まだ若かった伊藤博文がつくった兵庫県庁の庁内の空気や吏員の気分というのは、どの府県の府庁・県庁よりも明るくて、官の匂いが薄いといわれていた。
『神戸開港三十年史』 にも 「新県庁を開く、官民の交接頗る平民的なり」 として、具体的にその気分のよさについて述べている。明治早々の官の重苦しさはときに旧幕時代をこるものがあったが、兵庫県庁の場合、居留地気分の照り映えもあったろが、伊藤という男のいい面が、庁内の気分をつくったといっていい。
当時の兵庫県庁の管轄内の神戸区からのちに神戸市役所が誕生する事を思うと、この気分は、おそらく県庁以上に市役所に遺伝することになったかもしれない。
『街道を行く・二十一』 著・司馬遼太郎 発行所:朝日新聞社 ヨ リ
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