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2010/07/29 (木) 神戸散歩 生田川 (四)

私どもは、崖ぶちにかか る雄滝の茶屋から布引ぬのびき の滝が落ちてゆくのを見て、豪雨の時など、下流の生田川は大変だろうと想像した。
神戸は山が海岸の市街地に迫っているために、川の長さが短く、極端に言えば豪雨の時など、じかに滝が市街地にたたき落ちてゆくようなものだろうと思った。
帰宅して調べてみると、ナークスの前任の英国公使だったオールコックが、兵庫に上陸してこのあたりの地理を見、生田川に気づいている。彼が見た生田川には、水が流れていなかった。六甲山系の多くの川と同様、乾燥が続くと、水が涸れるのである。さらに、山から土砂が押し流されるために、地面よりも高く川砂が堆積し、堤防が土塁のように高くなっていて、いわゆる天井てんじょう 川であった。このため、大雨が降ると、付近を水びたしにした。
この川の勢いは、出来上がったばかりの居留地をおびやかしたために、居留地の人々の間で、
── あの川を、日本人たちはなんとかしないか。
という声がたえず出ていたのにちがいない。
伊藤博文は明治二年七月に大蔵おおくら 少輔しょうゆう になり、やがて神戸を去るため、この付替工事の計画にどこまで関係したかわからないが、ともかくも県庁が企画し、明治三年末か同四年のはじめごろに加納宗七が、公費三万両ちょっとで請負った。
あたらしい河道は、布引の滝の下から、まっすぐに線をひいたように、最短距離 (1.9キロ) で海に落ちるというものだった。
加納宗七は、明治四年三月十日に着し、わずか三ヶ月で完工させてしまった。よほど物事のできる人物だったにちがいない。
河川かせん じき が、みごとに砂を堆積したまま残った。加納宗七はこの土地の入札に参加して落とし、河道を18メートルという当時としては見事な道路に仕立て直し、海岸まで突き通した。道路の両端は丹念に造成して宅地とし、希望者に分譲した。
現在、旧生田川の西側の堤路に神戸市役所があるが、市役所前の道路は、もともとは加納宗七がつくったものである。
宗七についての神戸における痕跡は、彼が造成した一画に加納かのう ちょう という町名がつけられているぐらいである。
ともかくも、いまの神戸市街地の原形は、居留地の造成にあるというより、むしろ生田川をつけかえてその旧河道を路幅の豪宕ごうとう な道路に仕立て上げた明治四年のこの工事であるといってよく、これによって神戸市街の骨格が出来上がったといえる。

『街道を行く・二十一』 著・司馬遼太郎 発行所:朝日新聞社 ヨ リ