〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/07/29 (木) 神戸散歩 生田川 (二)

兵庫が幕府直轄領になったのは江戸後期からで、それまでは尼崎あまがさき 藩の藩領であった。尼崎藩は兵庫港に陣屋を置いて藩吏を駐在させていたが、幕府直轄領になってから、その陣屋が、そのまま大坂与力の駐在所に使われた。
──尼崎藩領時代の兵庫はよかった。
というのは、当時の兵庫商人がひとしくささやいていたらしいところであった。尼崎藩はその財政の上から、兵庫港の発展はじかに藩を利するものであったために、商人を大切にし、彼らの商業活動を拘束するような事はしなかった。
しかし、幕府直轄領になると、事情が変わった。具体的には、大坂に支配される事だった。さらに言えば、大坂奉行所の背後にいる大坂の株仲間に支配される事だった。
開港によって、さらには幕府が倒れることによって、兵庫は大坂から独立したといっていい。神戸人が、大阪に対して持っている明色でないイメージは、ひとつには、右のような歴史の遺伝が、どこかに残っているのかと思える。大阪といえば、神戸人にとって、実態以上に泥くさく思えるらしい。それは、かって兵庫を支配した江戸幕府の泥くささ、江戸期の日本人の意地の悪さ、頭にちょんまげをのせた阿呆あほう ずら といった明治以前の日本人・日本文化の陋劣な部分のすべてが、少なくとも開港早々の時期の神戸人には感じられた。それよりも、居留地の外国人の方がはるかにスマートで美的であった。
この点、兵庫港に古くから住む人々にとっては、土着の攘夷排外の感情はあったろうが、新興の居留地で外国人から口銭をもらったり、領事館や商館の給仕をしたり、入港をする船に伝馬てんま せん を漕ぎつけて雑貨を売ったりする神戸市民の元祖というべき人々にとって、 「異人さん」 というのは、古臭い幕府に比べてはるかに力強く、金もあり、文化も高い新階級ともいうべき存在だった。
繰り返し言うが、公文書においては、
「兵庫」
と称しつつも、実際には兵庫港ではなく、それよりずっと東方の神戸の村の海岸に開港場が開かれたのは、当時の日本暦 (旧暦) で慶応三年十二月七日 (西暦一八六八年一月一日) である。
この時期、日本は内戦 (戊辰ぼしん 戦争) 寸前で、極度に緊張していた。すなわち、新首都の京都は薩摩郡が幼帝を挟んで占拠している。大坂にあっては幕軍数万が集結し、対外的は先々月まで 「日本国皇帝」 (先々月にいわゆる “大政奉還” ) 徳川慶喜を擁している。のちでいう 「鳥羽・伏見のたたかい 」 が起ころうとしていたのである。 神戸の誕生が、革命の内戦前夜であった事は、都市性格の形成にとって重要な因子であったといっていい。
西暦の方で言えば、この一月一日、当日、英米をはじめとする諸国の軍艦が神戸村の沖にあちまり、一艦二十一発の祝砲を射ちあげた。
兵庫の開港は、外圧によって幕府が諸外国と約束し、その実施については薩長に擁せられた 「京都」 が勅許をしぶり、幕府は外国と 「京都」 との板ばさみになり、国内の政争の具となっていた。英国公使パークスなどの側から言えば、神戸をむしりとるようにして開港させた、という実感であったろう。パークスは日本に内戦が起こる事は必至とみて他の国々とともに大阪湾に軍艦を集めた。
この時代、軍艦というものは、国家の利害、威権のすべてをあらわす象徴であり、かつ具体的に国家的意思を行使する力そのものであったといっていい。
それらが、神戸沖にならんでいる。
陸地には、各国はすでにありあわせの建物を借り上げてこの日から領事館を開いており、それらの屋根の上には各国の国旗が翻っていた。
そのなかで、各艦が、一月一日正午、砲声をあげたのである。 (この場合、日本側に砲台があれば、祝砲を発射せねばならない。兵庫港の和田岬に勝海舟が設計した円筒状の砲台が一基あり、いまも三菱重工の構内に史跡として保存されているが、一発うつと堡塁内部に、ガスが充満して砲手が失神するおそれがあるという だったせいか、この砲台が礼砲を射ったという史料はない) 。
英国公使館員アーネスト・サトウの 『一外交官の見た明治維新』 によると、大坂の天保山砲台は射ったらしい。しかし、神戸沖まできこえたかどうか。

『街道を行く・二十一』 著・司馬遼太郎 発行所:朝日新聞社 ヨ リ
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