〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/07/29 (木) 神戸散歩 生田川 (一)

開港場としての神戸が、旧幕府の治下にあったのは、わずか二年にすぎない。当時、古くからの港である 「兵庫」 の地名で公文書ではよばれており、神戸村はその一部をさすにすぎなかった。
開港と同時に、権利上の 「外国人居留地」 (以下単に居留地) が発足する。その居留地が神戸村の浜寄りに敷地を持ったために、兵庫の呼称がうすれ (あるいはいよいよ広称になり) 神戸という地名が、前面に出て来た。神戸が、その核としてあくまで居留地として発足した事が、右の出生しゅっしょう の事情と名称の変遷によって察せられる。誕生した神戸にあっては、あくまでも外国人が主であった。彼らの貿易事務と、居住地の環境感覚を、政府以下、県庁・地下じげ びと が重んずる事で都市の個性や市民に共通する都市感覚が出来上がったといっていい。

神戸にとって、大阪は むべき旧時代の象徴であった。江戸期、兵庫と兵庫港は大坂の奉行所の支配下にあり、大坂から与力一騎がやってきて兵庫における行政事務を担当していた。
江戸期の商業の一特長は、
かぶ 仲間なかま
というものだった。同業仲間としては互いに過当競争をしがちだし、政府 (幕府) の保護が必要な場合もある。政府としては商業というえたいの知れぬ膨脹や動きをする ── ともすれば封建制の からはみ出がちな ── ものを掌握しておくのに、同業ごとに 「株仲間」 をつくらせておく方がいい、というのが幕府の思想に ったのだろう。たとえば、大坂における煮売にうり の株は七百四十四株、湯屋の株は百四十株、髪結床かみゆいどこ の株は二百七十八株、旅籠はたご 株は九百七十六株といおうもので、新規にあきない いをする場合、株仲間のうち廃業したり空株あきかぶ になっている株を買うことからはじめねばならなかった。
── お株をとられる。
という慣用句が、いまなお使われている。その人のお得意の芸や癖を、一座の誰かに取られるといった他愛もない場合に使われるものだが、言葉の起こりは江戸期の株にあり、深刻な例で言えば、当主が急死して息子がまだ幼い場合など、叔父などが番頭をまるめこんで株を自分のものにしてしまうことで、、たとえ先代以来の家屋としての店舗があり、息子が立派に成人しても、取られた株が戻って来なければ営業は出来ないのである。
江戸中期以後、兵庫は北前船きたまえせん の出発港の一つとして栄えたが、廻船問屋の株は少なく、十数軒しか許可されなかった。
このことは、大坂の同業者が、大坂奉行に働きかけて兵庫港の成長を押さえ込み続けたということがあるらしい。
江戸期、開港場である横浜も江戸に支配されていたが、そのくせ横浜には江戸を憎む感情がないにひとしいのは、江戸が日本国の首都であり、政治・文化の権威の中心であるということがあって、江戸への尊敬心が強すぎた事によるだろう。
この点大坂には、都市を装飾するところの政治や権威というものがなく、兵庫港からみれば、そういう大坂に、大坂奉行所を通じて支配されている事が笑止千万だったにちがいない。

『街道を行く・二十一』 著・司馬遼太郎 発行所:朝日新聞社 ヨ リ
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