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2010/07/26 (月) 神戸散歩 布引の水 (二)

大阪も、江戸から明治二十年代までは、水屋が活躍した。元来、大阪というまちは、城のある上町台うえまちだい をのぞき、沖積層の地面に堀割を網の目のように掘る事によって あが らせた土地だから、水がわるく、井戸を掘っても飲めるような水が沸いて出なかった。
大阪の 「水屋」 は、酒造の灘の 「水屋」 のように酒をつくる を売るような高級なものではなく、また明治期の神戸の 「水屋」 のように外国船に運んで一儲けできるような水ではなく、各家庭のための飲料水、あるいはすす ぎの水、打水うちみず の水だった。
大阪の水屋の水には、値に上下があったといわれる。淀川の中流まで 「水船みずぶね 」 で漕ぎのぼってきれいな瀬で汲む水は高いが、ふつうは都市を流れる下流での水汲みずくみ で 「水屋」 が汲んで売った。各家庭では、それを、越前焼かなにかの大きな水瓶みずがめ にたくわえたのである。
「水汲場」
というのは、ほぼきまっていた。明治二十年ごろの資料でいうと、淀川下流では、もっとも盛んなのは天満橋の橋から少し上流、次いで源八げんぱち わたし のやや上流、中津川では、うれし ヶ橋の上流であった。 『水屋』 は水船をそこまで持っていって汲み、そのあと、それぞれ株のようになっている河岸まで漕ぎ寄せ、そこから人夫が水桶みずおけ をかついで売りにゆくのである。いちいち呼び売りしなくても、水瓶が少なくなっている家々では、軒先に、
「水」
と書いた木札をつるしておくために、売る方も買う方も手間が要らなかった。水の値段は、一荷いつか あたり一銭五厘ぐらいだったという。
井戸を掘れない大阪というまちは、水には苦労した。淀川で汲水くみみず するために、コレラのような伝染病がすぐにはびこった。
苦労したわりには、上水道の歴史は遅れた。
江戸は、日本政府の所在地だったために、家康の江戸入部にゅうぶ 後ほどなく井之いの かしら から水を導いて神田・日本橋一帯に給水し、家光の時代にはさらに規模を広げ、多摩川から水を引き (玉川上水) または青山、亀有かめあり 、三田、千川せんかわ からも導水した。当時のヨーロッパい比べ、先進的であったといっていい。鹿児島や金沢など大藩の城下町も、上水道をもっていた。
この点、江戸期の大阪は幕府領でありながら幕府がここに公費を投下して社会設備をつくることがきわめて稀であったため捨てられたままになっていた。
明治後も遅れた。上水道の着工は横浜がもっとも早く、失敗したとはいえ、明治四年三月という早い時期に小規模なものをつくるべく起工した。その後、東京帝大工科大学の御傭教師・HS・パーマー (英国人。1838〜1893) に設計を依頼し、明治二十年 (1887) に完工している。函館、長崎がこれに次、大阪は長崎のあと、明治二十八年、人口六十一万人をうるおす程度のやや規模の大きなものを完工させた。 「水屋」 が荷を担いで家々をまわる時代が、やっと終わったのである。
「水屋」 のその後について触れておくと、廃業に追い込まれたものの、幸い、人力車の需要が増える時代になったために俥屋くるまや に転業する者が多かった。一部は葬式屋に転業したというが、この二つにどこか共通点があったのだろうか。
ともかくも、大阪にあっては 「水屋」 の時代も水道の時代も、淀川の水によって生きてきた。ロシア人ほど川を聖なるものと思わないにしても、大阪の市民でこの川の名をおろそかに呼ぶ者はいない。
が、ひところまでの神戸では、淀川といえば何やら俗でおろかですっきりせず、なにやら便所の匂いのする大衆席といったイメージがあったように思える。
それほど神戸市には、天恵が深かった。清らかな湧き水をたっぷり含んだ六甲の大山塊が、町のそばにせまっていて、外国船まで喜んで買うほどの水を市民に与えていた。
そのせいかどうか、神戸の水道は遅れた。
横浜に水道をつくったパーマーを呼んで視察に来てもらうが、予算などのため、着工に至らなかった。そのあと、東京帝国大学の衛生工学教師で、内務省衛生局雇工師だったW・K・バルトン (1855〜1899) に依頼した。それが、明治二十五年である。
その後、事が進まず、完工したのが明治三十五年であった。布引貯水池も、この時に出来た。
神戸ほど、上水道工事が容易な条件の町も少ないであろう。水源が町のそばにある上に、市街地が背後の山から海へ傾いているために、パイプを施設するだけで天然水圧で水は配られてゆくのである。そういう町で水道が他の都市に比べ、よほど遅れたというのは、水についての逼迫感ひっぱくかん が乏しかったからに違いない。
「水屋」
たちの利害感情も、あるいは県会などに反映したかもしれない。もっとも神戸の 「水屋」 たちも、山から水を汲んで来て荷車に積み、岸壁から給水船に積みかえるという牧歌的なやり方ではとても追っつかなくなった。
内外の船舶が輻輳ふくそう して、大八だいはち ぐるま 式の水運びではどうにもならず、当時、海岸通にあった日本郵船会社などは給水に困り、
「区 (神戸区) がなさぬなら、私設でつくる」
と、明治二十二年に上申しているほどで、鈍重だった県 (のち水道については市が中心となる。神戸市は明治二十二年に成立) をまごつかせた。神戸は、水道についても、市民への給水よりも船舶給水の問題が急務で、しかも主導的であり、ときに恫喝的であせあったあたり、同時代の大阪の事情と比べてその違いを察すべきである。
『街道を行く・二十一』 著・司馬遼太郎 発行所:朝日新聞社 ヨ リ