頼朝は、慎重に聞いていた。心の平衡
を失うまいとする容子は見える。 だが、そうした讒言ざんげん
を聞かない前から、彼は、こんどの大捷も、これまでしばしばあった神冥の加護によるもの。そして、その威徳は自分にあるものだということは固く信じていたのである。
「── 豈あに 、ひとり義経の功であろうや」
と心でつぶやき、また、義経の手柄とは、思いたくない気持もあった。 油はそそがれた。 理性に富む彼にも、盲点があった。奇瑞とか神助とかには、おかしいほど御幣ごへい
をかつぐ。それも、自我に都合よくである。梶原の讒ざん
は、彼が疑いたい疑いに証あかし
を提出し、考えたいような考え方に鼓舞を加えた。 もっとも、このおりの讒言が、義経にとって、すべて濡ぬ
れ衣ぎぬ で、根も葉もなかったとは、言い切れない。 頼朝もまた、一讒者いちざんしゃ
の言に、そう軽々と、気色を動かされる者ではなかった。 すでに以前からも、彼の耳へは、義経についての、いろいろな取沙汰が、些事さじ
大事だいじ となく、聞こえていたであろう。 世に、讒者は、梶原一人のように言われて来たが、幾多の小梶原も他にあったに違いない。 三河守範頼とか、その麾下きか
の諸将にしても、義経にとって、よい報告のみを、鎌倉へするはずはなかった。── 自軍の無能をおおうためにも。 四月二十九日。すなわち、都では義経の引く平家人の捕われ車が入京の雑閙ざっとう
をわき返していた当日。── 鎌倉の府内では不気味なる少数の侍者じしゃ
と頼朝との間に密談がとげられ、即日、頼朝書をおびた使者が、西国へ立っていた。 書は、あとに残った田代冠者信綱に送られたもので、内容は、 |
──
従来、判官は、関東のお使いとして、御家人どもを相副あひそ
へ、西国へ差し遣つか はされし者。しかるに、判官、いたづらに自立を恣ほしいまま
にし、侍どもを私わたくし に思ひなし、人これを怨うら
むの趣おもむき 聞こえたり。 以後も、志こころざし
を鎌倉に存そん し、関東に奉公を思ふ者は、一切義経の命には、従ふべからず、この旨、内々に触れ候へ
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という異常な内命であった。 が、まだしも、これには
「義経勘当よしつねかんどう 」
とまでは書いていない。ところが、月をこえた五月四日、先の景時の使者が帰るさい、密ひそ
かに持たせてやった頼朝の指令には、あきらかに、義経勘当の意が、内示されていた |
“──
今後は、何事も一切、義経の下知に従ふに及ばず” |
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という旨は、先の書面と同じであったが、特にまた、平家の生捕りどもはみな大事な罪人であるといい、ひとり九郎の存意の下におくのも心もとない
── と、あった。そして、景時一族も早々上洛に及び、九州中国の治とあわせて、その方面のことも、御家人どもと心を一つに、抜け目なく守るように。── かたがた、武者どもおのおの、心まかせに、関東へ帰ることは相ならぬ、とも厳しく戒いまし
めたものだった。 果然、頼朝は、梶原の讒間ざんかん
に乗った。いや、自分の弱点に自分で懸った。 彼は、大捷の第一報を、南御堂の棟上げ式の場で聞いたとき、 ── 亡き父義朝の御庇護ごひご
か、神明の助けならん。 と言って、涙を流した。 彼は、亡き親の余徳を受け、神の恵みのあることを信じている。 だが、そのめぐみを、他へ頒わ
けることを彼は思わなかった。亡父の威徳と感じても、そのコを、同胞はらから
へ頒わ けあい、ともに喜ぼうとはしなかったのだ。彼の自我が、ここにある。 けれど、彼の風貌ふうぼう
は、寛ひろ やかで、何があっても、閑しずか
に見える。 義経への、ただならぬ怒りを抱き、勘当の処置すらもらしても、なお、鎌倉の府といい、彼の起居する若葉の奥といい、閑寂そのものであった。 ──
何か、そこでは、義経という者を、恐怖の対象とし、忽然こつぜん
と生じた妖星ようせい のように、観み
ている風がないでもない。 |