〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/12 (土) かん   どう (一)

さきに、義経とは全く別途に、梶原景時が赤間から出した二度目の使者が、鎌倉へ着いたのは、四月二十一日だった。
使者も、ただ者ではない。景時の腹をよくのみ込んでいる一族の者とか、腹心の侍であったろう。頼朝に書をささげた後、直々、人を払っての拝面を遂げ、委細の模様を、口頭で述べたてた。
「── 何にしても、お味方の大勝利、ただ、めでたきばかりではございませぬ。事々、ふしぎなる吉瑞きちずい も数知れぬほどございました」
と、かては先ず言う。
「なに、勝利の前に、吉瑞きちずい が数々あったと?」
頼朝も、はず んで言った。
さもあろう、という顔いろである。
思えば、彼の成功までには、実に奇跡的といえることが多かった。何度、運命の薄氷を踏んだか知れない。
北条家との結びつきや、政子との恋も、そうだったし、石橋山の敗戦に、一命を拾ったことも。房州へ逃げ渡ってからの事々も、何かいつも奇運に恵まれている。
いや、すでに十三で平家に捕われ、池ノ禅尼の命乞いで生きた ── という発足からして、彼には、神仏の加護みたいな念が深く胸に みていた。── 今日、鎌倉の府の創建とともに彼が成しつつある鶴ヶ岡八幡やら諸社諸堂の建立こんりゅう は、そうした彼の奉謝の現れと、信仰の実践といってさしつかえない。
「・・・・むむ、そうか。して、壇ノ浦にては、どんな奇瑞がありしぞ」
頼朝は、使者に問いながら、心の内で、 「── そうだ、その第一の捷報しょうほう を受けた日も、ちょうど自分は、亡父ちち 義朝の新廟しんびょう 、南御堂の棟上むねあ げの式にのぞんでいた。げにも、ふしぎな巡りあわせと、あの日にも思われたが、さては、戦場にても、奇瑞があったか」 と思い合わせて、なお、聞かまほしい容子を見せた。梶原の使者は、語をつづけて。
「されば、神明の祥瑞しょうずい 、いちいちも挙げきれませんが、三月四日、朗従ろうじゅう 成光なりみつ なる者の夢に、石清水八幡いわしみずはちまん のお告げに、壇ノ浦の勝ち、疑いなしとの御夢台があり。── また去年、三河どのの御陣へ、大亀を捕えて来た者がございました。三河どのには、御不愍ごふびん に思し召され、亀の首にふだ を付けて海へ放ちやられしところ、壇ノ浦大捷たいしょう の後、その大亀が三河どのの御陣所の近くに浮かび出て、やがて沈み失せたりなどの奇瑞もございました」
「まだ、なんぞほかにも」
「平家一門、海底に亡び去りし夜、黒き雨雲の夜なるに、白鳩しろばと 二羽、去りもやらで、お味方の上を、いつまで舞うて見え候うと、人びと、奇瑞を感じておりました。これや、八幡のお使いならんと」
「おお、それこそまさしゅう」
「いずれも、思い合わせれば、このたびの大捷は、ひとえに、神冥しんめい の御加勢と、君の御威徳によるものなれど、とかく勝ちにおご ると申すものか、人びとの間には、さしたるかしこ みも見えず、主人梶原なども、せっかく軍監の御命を承って下りながらと、胸いためておりますような次第で・・・・なんとも以後は」
「はばからず申せ。勝ったる後こそ、なおその辺の儀は、大事なるぞ」
「申すも、舌の硬ばるような心地にござりますなれど、今は、ぜひのう申し上げまする。── じつは、判官の九郎の殿、屋島このかた、一ばい御驕慢ごきょうまん あらあらしゅう見え給い、士卒軍兵ら、みな薄氷を踏む思いにて、ただただ、御意に、逆らわざるを旨とし、さしも副将方まで、内に違和いわ ありては、戦も危うし、鎌倉どのへも相すまじと、ただただ帷幕いばく にあって、今日の来るのみを、待っていたような次第でございました」
「そして、昨今の九郎の行状は」
「壇ノ浦に勝ちを見給うての後は、特にまた、一切の権を振われ、たとえば、三河どののおわす、九州のことも、三河どのへの御談合もなく、筑紫諸党の徒を、身ままに国へ返し、さらに、平家の主なる生捕り人や女房は、ことごとくお手許におき、用なき雑兵のみを、主人梶原の手にあずけて、彦島は血臭しなどと仰せられ、まだ戦後の治もととのわざるに、早くも豊浦とよら へ御陣を移し給うなど・・・・」
「豊浦? ・・・・。おう、九郎はすでに、そこを立ったの」
「その儀も、院の御命による上洛には相違なきも、まだ鎌倉どのよりは、折り返してのお沙汰もなきに、いかがなものと、主人梶原は切においさ めした由にござりまする。・・・・が、もとよりお聞き入れはなく」
と、そのほか、義経の独裁ぶり、賞罰の不当など、さまざまなざん をつけ加えて訴えた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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