宗盛父子の身柄は、その夕、六条堀川の義経の館にほど近い一邸に押し籠
められた。 そのほかの虜将りょしょう
も、それぞれ、麾下きか の手へ預けられ、きびしい監視の下におかれた。 中でも、平大納言時忠の囲いは、義経の館から、もっとも近い所に、定められた。彼と宗盛とは、義経直々じきじき
の警固の下におかれたという形にみえる。 が、時忠の嫡子時実は、旅の途中で、病にかかったので、他の重傷者とともに、鳥羽からべつな間道を送られて来、そこへ着いたのは、夜に入ってからであった。 ──
同時に、その日の大路渡しに、曝さら
されることなく入京した車もあったやに思われる。 ついに、建礼門院の御車なども、群集の眼に触れずにしまった。時刻とき
を違たが えて、別な間道から入洛されたとしか思えない。 女院はどこへ?
といえば、人びとがそれを知ったのは、だいぶ日を経てからであったが、東山のふもと、吉田の辺りに、いつかお住まいのことが分かった。 むかし、中納言の法橋慶慧ほっきょうけいえ
という奈良僧のいた一坊である。 他の女房たちも、それぞれ、吉田、白河あたりの草深い、そこここに、所を分けて慎みを命じられたことにちがいない。── 女院のおそばには、依然、大納言佐だいなごんのすけ
ノ局つぼね と、三人の侍かしず
きしか許されていず、梅雨つゆ
も近い葉桜のしげりは、冷ややかなほど昼も暗く、破れ屋根と廊と、そして不開あかず
の妻戸が、樹々の奥にうかがわれるだけだった。およそ女院らしいお方の影だに、以後は見た人もないという。 入京の当夜はもちろん、その翌日も次の日も、義経はまだ、堀川のわが家に帰って、きつろぐ暇も全くなかった。 「さきに、簿ぼ
をもって、申し捧げし生捕り人どもすべて、とどこおりなく、おのの幽所に囲い終わって候う」 と、当夜、院庭に届け出、さてまた、深更に及んでは、院への拝謁はいえつ
があったりした。 親しいおことばがかかる。 法皇の御賞讃は、身に余るほどだった。上卿たちもいたのに、御自身の口から、 「追って、恩賞のことも」 という内示まで、直々仰せられたりした。 座には、左大臣経宗、徳大寺実定、堀川大納言、左大弁兼光などもい、それらの上卿たちから、 「合戦の次第、平家亡び終わんぬる顛末てんまつ
など、あらまし物語られよ」 とも求められた。 つつましやかに義経は経過を語った。 そして、その功に、あずかって、力となったのは、 「ほかならぬ平大納言どのの応反でした。もし、時忠どのの切なる悲願による合力が裏からなくば、神器の二品も、とどめ得たか否か、あやういことであったかもしれませぬ」 と述べ、ここで彼は、時忠の返り忠と、彼の苦衷くちゅう
を、院と上卿たちの耳へ、しかと入れておいた。特に、時忠父子が平家にため、早くから和を望んで院へも恭順きょうじゅん
の意を抱いていた点を強調した。 「・・・・思い当たるふしもある。さも、あらんずらん」 と、上卿たちの幾人かは、うなずいた。 とにかく大首尾であった。法皇の眷顧けんこ
は義経に対して一ばい厚くなったこと確かである。 義経とて、うれしくないはずはあるまい。だが、どことなく彼は心が重そうであった。冴さ
えきれぬ何かを顔のやつれに澱おど
ませていた。── まずは入京二日にわたっる大任もすませ、同時に、賜酒の酔いも体にめぐり、いささか当夜は疲れを覚えていたせいもあろうか。 しかし、それから続いて三日間にわたり、神器奉安の御式ぎょしき
やら臨時の御神楽みかぐら が朝廷で執り行われる。──
依然、彼の朝務はその間、解かれる事もなかった。── 静の顔を見ることはおろか。わが家の様をかえりみる暇もない。 おまけに、二十九日には、国忌くにいみ
の日とやらで、御神楽のことはなく、三日間が四日に延び、月も五月へまたいでいた。 さっそく、鎌倉の頼朝へは、朝廷から、平家討伐の勲功として、従二位を贈られる旨が公おおやけ
にされた。 義経もまたやっと、賞に報われた。── その賞とはたれから貰うものでもなかった。── 彼は六条堀川の邸へ帰った。そして、静の顔を見たことだった。 |