〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/11 (金) くるま じき (四)

宗盛父子の身柄は、その夕、六条堀川の義経の館にほど近い一邸に押し められた。
そのほかの虜将りょしょう も、それぞれ、麾下きか の手へ預けられ、きびしい監視の下におかれた。
中でも、平大納言時忠の囲いは、義経の館から、もっとも近い所に、定められた。彼と宗盛とは、義経直々じきじき の警固の下におかれたという形にみえる。
が、時忠の嫡子時実は、旅の途中で、病にかかったので、他の重傷者とともに、鳥羽からべつな間道を送られて来、そこへ着いたのは、夜に入ってからであった。
── 同時に、その日の大路渡しに、さら されることなく入京した車もあったやに思われる。
ついに、建礼門院の御車なども、群集の眼に触れずにしまった。時刻ときたが えて、別な間道から入洛されたとしか思えない。
女院はどこへ? といえば、人びとがそれを知ったのは、だいぶ日を経てからであったが、東山のふもと、吉田の辺りに、いつかお住まいのことが分かった。
むかし、中納言の法橋慶慧ほっきょうけいえ という奈良僧のいた一坊である。
他の女房たちも、それぞれ、吉田、白河あたりの草深い、そこここに、所を分けて慎みを命じられたことにちがいない。── 女院のおそばには、依然、大納言佐だいなごんのすけつぼね と、三人のかしず きしか許されていず、梅雨つゆ も近い葉桜のしげりは、冷ややかなほど昼も暗く、破れ屋根と廊と、そして不開あかず の妻戸が、樹々の奥にうかがわれるだけだった。およそ女院らしいお方の影だに、以後は見た人もないという。
入京の当夜はもちろん、その翌日も次の日も、義経はまだ、堀川のわが家に帰って、きつろぐ暇も全くなかった。
「さきに、簿 をもって、申し捧げし生捕り人どもすべて、とどこおりなく、おのの幽所に囲い終わって候う」
と、当夜、院庭に届け出、さてまた、深更に及んでは、院への拝謁はいえつ があったりした。
親しいおことばがかかる。
法皇の御賞讃は、身に余るほどだった。上卿たちもいたのに、御自身の口から、
「追って、恩賞のことも」
という内示まで、直々仰せられたりした。
座には、左大臣経宗、徳大寺実定、堀川大納言、左大弁兼光などもい、それらの上卿たちから、
「合戦の次第、平家亡び終わんぬる顛末てんまつ など、あらまし物語られよ」
とも求められた。
つつましやかに義経は経過を語った。
そして、その功に、あずかって、力となったのは、
「ほかならぬ平大納言どのの応反でした。もし、時忠どのの切なる悲願による合力が裏からなくば、神器の二品も、とどめ得たか否か、あやういことであったかもしれませぬ」
と述べ、ここで彼は、時忠の返り忠と、彼の苦衷くちゅう を、院と上卿たちの耳へ、しかと入れておいた。特に、時忠父子が平家にため、早くから和を望んで院へも恭順きょうじゅん の意を抱いていた点を強調した。
「・・・・思い当たるふしもある。さも、あらんずらん」
と、上卿たちの幾人かは、うなずいた。
とにかく大首尾であった。法皇の眷顧けんこ は義経に対して一ばい厚くなったこと確かである。
義経とて、うれしくないはずはあるまい。だが、どことなく彼は心が重そうであった。 えきれぬ何かを顔のやつれにおど ませていた。── まずは入京二日にわたっる大任もすませ、同時に、賜酒の酔いも体にめぐり、いささか当夜は疲れを覚えていたせいもあろうか。
しかし、それから続いて三日間にわたり、神器奉安の御式ぎょしき やら臨時の御神楽みかぐら が朝廷で執り行われる。── 依然、彼の朝務はその間、解かれる事もなかった。── 静の顔を見ることはおろか。わが家の様をかえりみる暇もない。
おまけに、二十九日には、国忌くにいみ の日とやらで、御神楽のことはなく、三日間が四日に延び、月も五月へまたいでいた。
さっそく、鎌倉の頼朝へは、朝廷から、平家討伐の勲功として、従二位を贈られる旨がおおやけ にされた。
義経もまたやっと、賞に報われた。── その賞とはたれから貰うものでもなかった。── 彼は六条堀川の邸へ帰った。そして、静の顔を見たことだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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