長い旅の山河を越えて来た、がたがたな囚人車
は、すべて、べつな車と換えられ、入京のさい、宗盛にあれがわれたのは小八葉こはちよう
の車であった。 網代あじろ
の箱の横に、八葉蓮華はちようれんげ
の紋が描いてある。 群集の眼にわざと曝さら
させるためである。前後の簾は巻き上げられ、横の物見の簾も取り払われてある。 待ちかまえていた群集の前に、宗盛の姿は、ありありと箱の中に見えた。翼をかい合わせて円まろ
くうずくまった白鵞はくが か、白毛の生き物が、檻おり
に飼われて、外の光を恐れてでもいるようだった。 衣服は、浄衣じょうえり
とよぶ真っ白な狩衣かりぎぬ である。あの色白な肥肉ふとりじし
とゆたかな体躯たいく の持ち主であった大臣も、すっかり潮風に痩や
せ黒ずんで、その人とも見えないほどであったとは ── 当時の状を眼ま
のあたりにした人びとの手記にも見える述懐である。 また、宗盛の一子、右衛門督 え もんのかみ
清宗きよむね
(十七歳) も、同じ浄衣で、父の車の後から遣や
られた。 つづいて、平大納言時忠。主馬判官盛国などの幾輛いくりょう
。 間々に、女房車らしき車。一門の肉親たる僧都そうず
や阿闍梨あじゃり らしき沙門しゃもん
の人の車。 だが、女房車の箱だけは、前後の簾を布に垂れ代え、盲車めくらぐるま
にしてあった。 ここに、酷むご
たらしく見えたのは、侍大将らの捕われであった。── 上総介忠光、源大夫李康、美濃前司則清などという二十数名の闘将である。おのおのの浄衣の上に縄目なわめ
をかけられ、鞍くら の前輪に縛しば
られて、差し立てられた。 それらの武将には、傲然ごうぜん
たるもあり、うなだれたままの面もあり、頬に刀傷の痕あと
を見せて、惨さん たるほつれ髪を撫な
で上げかねているのも見える。 眼の前を、それらの姿や車騎が通り過ぎるたびに、群集の表情には、複雑な感動に揺れ、思わず声を沸き立たせた。 「・・・あわれやの」
と、涙を流し、 「憖なま じ、栄花の夢を見給える人ゆえ、生き恥のつらさも」
と、思いやるらしい眼差まなざ
しもあればまた 「ざまこそ見よ」 と叫ぶのもあった。多かったのは 「平家の総領でありながら、一門とともに、死にもせずに」 と、宗盛を嘲わら
うきびしい声だった。 中でも、溝みぞ
を隔てた路傍に、一群となっていた癩病法師かったいほうし
らは、平家に恨みでもあった者たちか、来たら唾つば
してやろう、泥土を投げて辱じしめてやらん、などと申し合わせていたが、狼藉ろうぜき
に出る前に、警固の武者に追われて、たちまちどこかへ潜り込んでしまった。 |