〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/10 (木) くるま じき (一)

人出は洛内だけでなく、前夜から虜囚とりこ たちが囲われていた洛外らくがい 鳥羽とば の辺から作道つくりみち四塚よつづか までも、道は人で埋まっていた。近郷遠国から、山々寺々から、群れ集まった見物は稀有けう な数であったらしい。

“── 人はかへり みることあた はず、車は輪をめぐらすこと能はず、 んぬる治承、養和の飢饉ききん 、東国西国のいくさにて、人だね 多くは亡び失せたりと思へしかど、なほ残りは多かりけりとぞ見えし・・・・”
古典の表現も古人の考え方もなんと面白いではないか。── 連年の飢饉やら戦渦で、おそらく人だねもずいぶん減ったろうと思われたことだったのに、さても一体、どこからこんなたくさんな人間がぞろぞろ集まって来るのだろう? 生きていたのだろう?── と互いにあきがお の様や物見高さがよく描けている。また、古今のちがいもない群集の姿や、ひしめきも眼に見えるようである。
ところで、かんじんな虜囚の入京も、このような大混雑では、何かとさまた げられたり、準備の手違いも生じていたに相違ない。予定の時刻は遅れるばかりであった。見物が今か今かと待つ囚人車めしゆうどぐるま はなかなか出て来ず、そこの鳥羽とば 南門の内や外では、
「退け退けっ。もそっと、遠くへ開いておれ」
「そこのぞいてはならん。これっ、なぜ通るか。なに、 ── たれに会わして欲しいと?」
と、汗に光る顔をこわ めて、群集の制御に奔命している武者のわめ きばかりが忙しげだった。
わけて、警固の武者が、制止に困ったらしいのは、以前、平家のなにがしに使えていた者とか、一門のられそれの乳母とか、身寄りの妹とか母とか、浅い深いはともあれ、捕われ人の縁故の男女が、
「たとえ後日のおとがめでも、苦しゅうはございませぬ。どうぞ、ただ一目の名残なりと」
「お願いでござりまする。このように」
「お会わせくださいませ。元のおあるじに」
「わしの甥子おいご に」
「もしや捕われの女房方の内には、この身がさし上げた姫君もおられましょうや。あわれ、お慈悲に、おなさけに」
と、入れ代り立ち代り、押しかけて来、中には、武者との押し問答の果て、喧嘩けんか を起こすこともあり、それだけでも、出門は、事にわかとも見えなかった。
しかし、まったくは、内部の出発準備が、思いのほか手間どったための、遅延であった。
女院のお身まわりなども、容易な世話ではないらしい。
四十人以上の女房たちというのに、車の数もはなはだ少なかった。
で、一輛に三人、四人ずつも、同車させるなどのこともあった。
平家人のうちでも、内蔵頭信基などは、重傷を負っており、ほか二、三の病人もある。それらの手当てやら差し立て方。また宗盛父子以下の、車くば りやら順序など、いざとなってからの騒ぎもまったく、ひと方でない。
「── 時刻は遅れたるぞ。いざ れ。もれはなきか」
やがて、義経の声が流れたとき、警固の一隊も、やっと南門外に、整列し出した。
それが先を払って、歩足の音を立てはじめると、さしも真っ黒な群集も道をひらいた。すぐ源氏の騎馬がつづき、虜囚車とらわれぐるま の十幾輛という列の、とどろな の音、馬、馬、馬 ── 歩兵、また騎馬の一陣など、白いほこり を舞わせつつ、一時に街道へなだれ出た。
このさい、もと内大臣おおい殿との (宗盛) の牛飼だった次郎丸の弟、三郎丸という者が、粘りに粘って、義経に哀訴をきき届けられ、宗盛の牛車の手綱をひいた。
「親代々、六波羅ろくはら どのに仕え、兄次郎丸は、木曾殿の車を り損じて、木曾の家来に斬られましたが、わたくしにとっては、内大臣おおい殿との は、よいお主でした。今生これぎりの御恩報じです。どうか今日の御車を引かせて下さい」
と、思い入った三郎丸の言葉に打たれて、例外ではあったが、義経もついに彼のみは、許してやったものだった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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