〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/09 (水) つき な き あか (四)

ところが、かなたの哀別も、他人ひと の身の上ではなかった。
後に思えば、この夜あたり、すでに義経の手枕へも、やがての悲風が、そよと訪れ出していたのである。
── 翌朝。
都の留守に残しておいた一郎党が、迎えのため、福原まで駆け下っていたのに出会い、その者の告げによると、義経が上洛途上の間に、次のようなことが起こっていたという。
鎌倉の、頼朝が、突如といってよい一令を発した。その要旨は、

“── 従来、関東の御家人たる者は、頼朝の推挙に非ざれば、任官叙位など、相ならぬ儀と、固く申し渡してあるに、命を破り、朝廷の補任にあまんじて、得々たる輩がある。
以後、そのような面々は、本国へ帰ることをゆる さぬ。もし尾張洲股すのまた から東へ踏み出る者があったら、所領を召し上げ、断罪に処す”
という厳しい布達だとのこと。
「はて?」
義経は、兄頼朝の意志が、どこにあるのか、思い惑った。
この令を、適用すれば梶原の息子や一族の二、三にも触れるが、義経の部下には、二十人余の該当者が出る。── 佐藤忠信なども、その一人だ。
がしかし、これは、新令ではない。従来も、鎌倉からやかましく言われていたことである。されば今度も、武者の凱旋がいせん に先んじて、武者よりも、院を牽制けんせい するための、意思表示かもしれない。
「いや、そうであろう。・・・・さしたることかは」
義経は、そう善意に解いた。
そして迎えに出ていた者へ、
「留守には何事もなかったか」 と問い、そのことよりも、すぐ次に、
「静は」
と、安否を、たず ねた。
「お変わりもございませぬ。ただ、陣中よりのお便りもないままに」
「案じて暮していたか。さあれ、無事でかえ った。まず、先へ走り帰って、義経はこうぞと見たままを静へ一時も早くつたえておけ」
と、その者を先へ返した。
かくて、旅路もわずか。── よど 泊りの一夜を最後に、都入りの日は近づいた。
二十五日の朝。
彼は、晴れをよそお った。武者一同も、前夜から身のあか をきよめ、それぞれ盛装して、鳥羽とば に到る。
鳥羽殿でん には、もう前夜から、神鏡神璽しんじ の還幸を迎える御使みつか いが待ちわびていた。── 宰相さいしょう 泰通やすみち 、左少弁兼忠、左中将さちゅうじょう 公時きんとき 、中納言経房など、つぼ胡?かなぐい を帯び、たてがみ飾りした馬をそろえて下馬し、ここに、義経から朝廷の手へ、受け渡しの式事が、行われた。
そして義経は、平家人の捕われを、そこに残して、その日は、神器還幸の列とともに都入りした。── 前駆三百騎、後駆あとが け百騎、朱雀すざく から六条へ、そして大宮を通り、待賢門たいけんもん へ入った。
道という道、辻という辻の人出は、たいへんなさわ ぎであった。神器の御唐櫃みからびつ を捧げてゆく公卿群やら、晴れの義経を見ようという人混みの陽気な押し合いへし合いであった。── だが、翌二十六日の人出は、もっと、すさまじいものだった。
「平家という平家の、名だらるお人は、あらまし生け捕られたというぞよ」
「なんの、斬り死にやら入水やらして、さは、捕われたとは聞かぬ」
「でも、入道どのの御総領宗盛公をはじめ、そのお子たち、一門のゆゆしき侍大将までが、生け捕られたのは確かなことぞ」
「二位ノ尼どのもか」
「いや、尼のきみ は、海へ身を投げられてしもうたそうな」
「さもあろうよ、母の すら、そうなのに、御総領の君が、父子して、捕われたとは」
「いや一概に、そうも言えまい。建礼門院さまには、御子みこ をお くしなされたが」
「女院には、一たん、海へ沈まれたが、源氏の武者に、救い上げられ、ぜひのう、都へお還りになったものだぞ。わけが違うわ」
「無残やのう。どんなお姿で」
── 無残やのう、と諸所で言いながらも、群集は、その無残なものを見たがって、ひる ごろにはもう道を埋めたまま、動きもとれない人垣ひとがき だった。それにもう、肌には薄暑はくしょ の汗を覚える夏ぢかい であった。
だが、どうしたのか、 は傾きかけても、平家人を載せた囚人車めしゆうどぐるま はなかなか羅生門の西に見えて来なかった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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