〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/08 (火) つき な き あか (三)

江田源三に伴われ、麻鳥はすぐ、女院のお見舞に、 せつけて来た。
先に彦島で、御入水のあと、 せっておられた時から、麻鳥は、お薬餌やくじ看護みとり のさしずに当っていたので、今初めて、几帳きちょう 深き所に、おん肌を まいらせるわけではない。
「お気づかいはありませぬ」
そこを退 がった後、彼はすけ ノ典侍へも、義経へも 「── かろい御風気です、お熱だにとれれば」 と言い、 「そのお熱も、さし上げる煎薬せんやく を召されれば、今宵か、明日の間にも」 と、心配のないことを保証した。
人びとは、眉をひらいた。
でも義経は、案じられて、夜のうち、二度までも、佐ノ典侍を訪れて、そっと、おん寝息をうかがった。
その夜は、たれはばからぬ気がされたし、暗い山路の行き帰りも、義経は、なんのやま しさにも問われなかった。
── 院の御使い、大夫尉たいふのじょう 信盛のぶもり が着いたのは、その翌日だった。
信盛は義経に会い、
「先の御飛脚の状に接するや、いやもう、院のおよろこび、殿上の感嘆、ことbはにもなんにもそれは尽くせません」
と、伝えて、
「まず、御諚ごじょう を拝されよ」
と、あらたまって、院宣を授けた。
文には。

── 征伐すでに、武威をあらはし、大功のいたり特に感じ思し召さるるのところなり。即刻、神器を奉じ、虜囚をひきつれ、上洛あるべし
と、あった。
義経はただちに凱旋がいせん の途に上るべくその用意を一同に触れた。
梶原や、豊後の範頼には、もちろん、院のお招きによる旨を伝えておき、次の日はもう豊浦とよら を発していたのである。
女院の御車のわきには、麻鳥を添えおき、道のいこ いの暇にも、夜のおん泊りにも、たえず彼に心をくばらせていた。
「── 幸いに、お熱のさがった後は、旅路のお眼移りも、かえってお心をまぎ らせてか、日ましに常のみ気色に返らせ給うやに仰がれまする」
麻鳥は、道々、義経に告げたことだった。
前内大臣宗盛父子以下の、平家の虜囚を乗せた十幾輛の牛車と、えんえんたる軍兵の旅である。── 雨の悩み、風の日の悩み ── 山陽道の旅は、一朝一夕のことではない。
が、ようやく、播磨路はりまじ にはいり、明石あかし に着いた。
それが、四月二十日ごろだった。
明石ノ浦に、夜の営をむすび、
「ここまで来れば、はや兵庫ひょうご は近し、日ならずして、都に入ることに相なる。── 都も近づけば、義経がひそかな心添えもままには振る舞われず、人目はしげし、聞こえもうるさい」
と、義経はわざと、その夜の捕われ人の幕舎とばり は、おのおの近くに寄せてしつら えさせた。そして、平家人へいけびと の内へ、
「── 月の名所の明石あかし に宿りながら、おりふし月は欠けたれど、かえって、おん名残を惜しみ合うには、やみ深く、波は明るく、およろしからん。こよいは、番の兵も解いて候えば、一門の御有縁ごうえん 同士、ひそと、歌会うたげ し給うとも、思い思いに別れを惜しみ給うとも、夜半までは、ままにまし給え」
と、ねんごろに、言ってやった。
特に、酒食も供し、女房たちの群れからは 「── 料紙、すずり をゆるし給え」 と乞うて来たので、それも与えた。
彦島以来、この日までは、たとえば宗盛と、その子の仲でも、置く所は、離されていた。── それがとばりとばり を通うて、相抱き、相泣き、語らいあえたことだった。
宗盛父子以下、捕われの一門大将ら十幾人、女房四十余名、どんな夜を過ごしたことであろうか。
もちろん、遠巻きに兵を見張らせ、万一のこともないようにしたであろうが、義経は、到底、その哀切なささやきやすすり泣きの聞こえる近くにはいるに耐えなかった。彼のみは、磯松の密生を遠くへだててとばり を張らせ、夜半までひとり手枕でいた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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