〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/07 (月) つき な き あか (二)

けれど、何か落ち着かない。もし都へも行き着かぬ間に、女院に万一なことでもあったら、それこそ、申し開きの立たぬ落度だと思う。
それもある。もちろん、その任務は、彼の心の重責となってはいる。
だが、純粋に、それだけのものでもなかった。
もし梶原などが、ちまたのいわさに仮て、彼の奥底をこそぐりのぞくようなことを言っていなかったら。義経は、今の場合にしても、すぐさま、山上をさして、女院の御容子を見に、ためらいなく行ったであろう。
── いわしておけ、人の口端くちは など。
彼は、梶原の言を一笑に附したばかりだが、やはり人目や口の端を、始終、気にしている自分をいな み得なかった。
われながらつかみ得ない心の動き方ではあると、義経は自分をあやしむ。
それは、今のみではない。
人知れず、微かな胸騒むなさい の血を覚えることは、しばしばだった。── 何かのことで、女院のお側近う身をすすめて、女院を慰めまいらすある日とか、ある夜、といったような人なき時にである。
おわす所に、自然かも されるあの、やごとなき御方の体温からたちのぼる高貴な気配が、そぞろ男のさもしい気をかき乱すのか。二十九という黒髪粘きお体から分泌する ならぬ薫りが蘭麝らんじゃ のように人をめくる ませ、眩惑げんわく せずには かないのか。
それとも、勝者のおご りも手伝って。
美しい弱者にたいする人間の嗜虐しぎゃく が、そのさい、義経の心にも、無意識のまに、忍び込んでしまうのか。
義経は、まま、はっと自分に気がつく。
── すると、絵の如き二十九の若きおん国母の嘆きはそのまま、かつての平治ノ乱に、清盛の前にひかれて泣き伏した母常盤ときわ の姿に見えた。── 子をもぎ られた悲腸ひちょう の母として、女院のおやつ れを、あらためて見るとき、義経は、くるまれていた厚い黒い霧の中から、はっと、われに返っている。
そして、われながら、浅ましさ、いまいましさ、言い知れない自身への嫌厭けんえん を抱きながら、黙々とふもとへ降り、わがとばり へ、そっと寝た。── そうした夜が、幾夜かあった。
同情か、恋か。
それとも逆な、勝者の征服欲か。
義経の心には、静という女性が住んでいる。だのに、なぜだろう、彼にもわからない。しかし肉体は彼をさいなむ事実なのだ。梶原の言は一笑に附し得ても、そぞ事実を彼は笑うことは出来なかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next