けれど、何か落ち着かない。もし都へも行き着かぬ間に、女院に万一なことでもあったら、それこそ、申し開きの立たぬ落度だと思う。 それもある。もちろん、その任務は、彼の心の重責となってはいる。 だが、純粋に、それだけのものでもなかった。 もし梶原などが、ちまたのいわさに仮て、彼の奥底をこそぐりのぞくようなことを言っていなかったら。義経は、今の場合にしても、すぐさま、山上をさして、女院の御容子を見に、ためらいなく行ったであろう。 ──
いわしておけ、人の口端
など。 彼は、梶原の言を一笑に附したばかりだが、やはり人目や口の端を、始終、気にしている自分を否いな
み得なかった。 われながらつかみ得ない心の動き方ではあると、義経は自分をあやしむ。 それは、今のみではない。 人知れず、微かな胸騒むなさい
の血を覚えることは、しばしばだった。── 何かのことで、女院のお側近う身をすすめて、女院を慰めまいらすある日とか、ある夜、といったような人なき時にである。 おわす所に、自然醸かも
されるあの、やごとなき御方の体温からたちのぼる高貴な気配が、そぞろ男のさもしい気をかき乱すのか。二十九という黒髪粘きお体から分泌する得え
ならぬ薫りが蘭麝らんじゃ のように人を眩めくる
ませ、眩惑げんわく せずには措お
かないのか。 それとも、勝者の驕おご
りも手伝って。 美しい弱者にたいする人間の嗜虐しぎゃく
が、そのさい、義経の心にも、無意識のまに、忍び込んでしまうのか。 義経は、まま、はっと自分に気がつく。 ── すると、絵の如き二十九の若きおん国母の嘆きはそのまま、かつての平治ノ乱に、清盛の前にひかれて泣き伏した母常盤ときわ
の姿に見えた。── 子をもぎ奪と
られた悲腸ひちょう の母として、女院のお窶やつ
れを、あらためて見るとき、義経は、くるまれていた厚い黒い霧の中から、はっと、われに返っている。 そして、われながら、浅ましさ、いまいましさ、言い知れない自身への嫌厭けんえん
を抱きながら、黙々とふもとへ降り、わが幕とばり
へ、そっと寝た。── そうした夜が、幾夜かあった。 同情か、恋か。 それとも逆な、勝者の征服欲か。 義経の心には、静という女性が住んでいる。だのに、なぜだろう、彼にもわからない。しかし肉体は彼をさいなむ事実なのだ。梶原の言は一笑に附し得ても、そぞ事実を彼は笑うことは出来なかった。
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