〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
壇
(
だん
)
ノ
浦
(
うら
)
の 巻
2014/07/06 (日)
女
(
にょ
)
院
(
いん
)
と
義
(
よし
)
経
(
つね
)
(二)
それも敵将義経という者の情けであった。── ということだの、身は今、その義経に警固されて、都へひかれる日をここに待つ空 ── というようなことも、山の小鳥に
醒
(
さ
)
まされた意識の糸が、ようやく、心の
象
(
かたち
)
に
縢
(
かが
)
りかけているような御容子だった。
ふと、ま白なお顔をあげて、
「
佐
(
すけ
)
ノ
御
(
ご
)
か」
「はい」
「いま、幼い者の声がしたが、この屋の外で遊んでいたのは、たれであろう」
「え。・・・・」
「
内大臣
(
おおい
)
の
殿
(
との
)
(宗盛)
は、お子二人まで、父君とともに捕われておいでとやら。その
乙子
(
おとご
)
(末子)
でもあったか」
「いいえ、ここは源氏の
警固
(
いましめ
)
の中、そのような御自由は」
「でも、たしかに、
御子
(
みこ
)
かと思われるような、そっくりな
幼声
(
おさなごえ
)
に、はっと胸をつかれたのですのに」
「お気のせいでございましょう。・・・・もう、もう、そのことは」
── お忘れになって、という言葉は余りにむごくて、典侍は、後を言えなかった。
いやそれよりも、はっと心配になったのは、女院のおん
黛
(
まゆ
)
から
瞳
(
ひとみ
)
へかけての、み気色だった。御産のお
窶
(
やつ
)
れにもまさるうえに、どこかまだ
空虚
(
うつろ
)
というよりは、いつも狂気の
淵
(
ふち
)
をのぞいていらっしゃるような、あのおん
眼
(
まな
)
ざしが、ふとうかがわれたからである。
そこへ移ってからは、御心もやや
宥
(
なだ
)
められた御容子で、夕べはいつにない、きれいなおん寝顔であったし、今朝は
白粥
(
さがゆ
)
をと
御方
(
おんかた
)
の方から仰っしゃったりして、胸なでおろしていたのに、と佐ノ典侍は、また亡き暮れてしまいそうになった。
かの女はあわてて身を
起
(
た
)
たせた。
自分までがそんな弱さでどうしようと、思い直した姿に見える。そしてわざと一方の
小蔀
(
こじとみ
)
を揚げた。山の緑と四月の光が、女院のお肩の辺りへ斜めに
映
(
さ
)
し込んで来る。
蔀
(
しとみ
)
を揚げた音に驚いて、その辺の
廂
(
ひさし
)
の裏に巣を持っていたのであろうか、ぱっと
燕
(
つばめ
)
の羽音が立ち、空へ溶けて行くのが見えた。
女院のお瞳が追っている。どこへ飛ぶにもひとりでない小鳥たちの家族をすぐ身にひきくらべておいでなのかも知れない。おん
睫毛
(
まつげ
)
が濡れている。外の緑とおなじ光に濡れていらっしゃる。
「・・・・どうしたら」
と、佐ノ典侍は、思い佇む。
女院のおいたでを、少しでも
癒
(
いや
)
しまいらせ、過去のこと、果てなき宿命のおん嘆きなどから、
脱
(
ぬ
)
け出給うお
扶
(
たす
)
けをして差し上げることが出来るであろうか。
かの女は、心でちかった。
泣くまい。女院さまは、おん嘆きでも、ともども自分までが泣き暮れまい。── 都に着き、やがて、おん身の行く末を見とどけまいらせて上げるまでは、と。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next