〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
壇
(
だん
)
ノ
浦
(
うら
)
の 巻
2014/07/05 (土)
女
(
にょ
)
院
(
いん
)
と
義
(
よし
)
経
(
つね
)
(一)
恐ろしいわだつみ。いつまでも耳鳴りから抜けない悪夢の壇ノ浦。
かがやくように、その海の色も、今は樹々の遠い隙間に、淡くしか見えていない。
潮の香よりは、四月の浅みどりの匂いが深く、岩間をつづる
紅
(
くれない
)
も、血ではなく
山躑躅
(
やまつつじ
)
の花だった。先ごろまでの荒い浪音と違い、野鳥の声には、むつまじい
宥
(
いたわ
)
り合いの世界が
偲
(
しの
)
ばれ、小さい生き物の愛情が、人びとのいたずらな
妄念
(
もうねん
)
や恐怖をしずめて、耳を洗い、心に
沁
(
し
)
む。
「・・・・ああ。人こそ、浅ましいもの。なぜ人はあのように生き合えぬやら?」
大納言佐
(
だいなごんのすけ
)
ノ
典侍
(
てんじ
)
は、破れ朽ちた廊の端に出て果てない
佇
(
たたず
)
みに忘れていた。── 彦島の
柵
(
さく
)
からここへ移されて来、ようやく何かわれに返った昨日今日の人心地であった。
そして今も、
「この
現
(
うつ
)
し
身
(
み
)
のふしぎさよ・・・・生きてはいる」
と思うにつけ、この間までは、ありありと一つにいた人びとが ── あの幼い
帝
(
みかど
)
をもくるめて ── と、すぐ涙が頬をぬらしてくる。その
瞼
(
まぶた
)
もあれからは涙にただれ通しで、涙が沁みるほど痛い。
「典侍さま」
廊の裏にある木蔭の物小屋から、二人の
雑仕女
(
ぞうしめ
)
が顔を見せた。一人は草露へひざまずいて、
「
供御
(
くご
)
の
白粥
(
さがゆ
)
ができました。女院さまへ、すぐ差し上げるのでございましょうか」
「いえ、伺ってから・・・・」
「では、いつなと」
雑仕女は、小屋へかくれた。
山水を汲み、米を洗い、そこから煮物やら、
粥
(
かゆ
)
を
焚
(
た
)
く、仮の
台盤所
(
だいばんどころ
)
であった。
ここの虜囚の男女すべてには、兵食にひとしい一汁一菜が朝夕に配られるほか、みずからの調理や火気を持つことは出来ない
掟
(
おきて
)
だったが、特に女院には、
佐
(
すけ
)
ノ
典侍
(
てんじ
)
を加えて三名の
侍
(
かしず
)
きも認められ、また 「── 御病後におわせば」 と、そのことも許されていたのである。
典侍は、内に入って、さらにほのぐらい奥の
簾
(
す
)
を、そっとうかがった。
簾
(
す
)
といい
几帳
(
きちょう
)
といい、兵がふもとの社家からかき捜して来たらしい
鄙
(
ひな
)
びた破れ調度に過ぎぬのはいうまでもない。が、
五衣
(
いつつぎぬ
)
のお袖を打ち
被
(
かず
)
くばかりに、低めな経机にうつ伏しておられた建礼門院のお
身装
(
みよそお
)
いは、
襲
(
かさ
)
ねの色の下からすべて新たな物にかえられていた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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