〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/05 (土) 花 さ ま ざ ま (四)

こんな不慮な出来事もあったが、ほどなく軍の列は、東の方へ流れて行った。そして群集も、その中の花売りたちも、また、夜を待つ野遊女ら群れも、いつか散らばってしまったが、ただ一人、道ばたの木にもたれて、いつまでも、うつろの眼をしていた女がある。
── 今朝からその辺の小屋の横で、顔を埋めたまま動かずにいた、あの妙な上臈じょうろう くずれであった。
「ああ、田辺の軍勢も、あの人もいなかった。見えたらと思ったけれど・・・・」
ふらふらと、歩み出し、元の小屋の横へ行って、また、さっきと同じような形で、何か考え込んでいた。日が暮れるまで、顔を埋めたきりだった。
「ああ、何を考えていたのだろう、このわたくしは。・・・・なぜさっき、わたくしは返辞をしなかったのか。田辺に帰れる身ではなし、どうせもう、こんな体・・・・」
夕方の星を見ると、かの女は急に烈しい飢えに かれて来たらしい。誇りを失った女の体と、責めと飢えとに、むち 打たれて、かの女は突然、何かへ向かって盲目的に走り出した。
たった今、文字ヶ関から着いた旅人の通船が、がやがや?船もやい を取っていた。
相手を待つ野遊女たちの群れが、物を食べ食べ、そこかしこに、たたず む影を夕靄ゆうもや にぼかしている。── どこか、うつつもない、しかし、餓死と闘っているような、必死な眼をした先の上臈は、その仲間の前へ来て、いきなり何か話しかけた。と思う間に、皆の足もとに泣き倒れた。
どっと、女たちが笑い出す。
また、それを怒って、上臈をなぐさめ、励ます声もしていた。
その晩から、ここの埠頭に、きれいな売女が、また一人ふえた。── その女が、かつては、田辺の女王とも言われたの、さくらノ であったというのは、ほんとか伝説か、なにしろ、しゅ 中に溶け込んでしまった朱なので、はっきりしない。
もし本当だとすれば、平家の滅亡からぜひなく身を落としたあわれな夜の花のうちでも、さくらノ だけは、ただ一人の例外であったと言えよう。
なぜなら、かの女にみは、たしかに籍は源氏にあり、源氏の女だったはずである。なお臆測おくそく をつけ加えるなら、おそらく合戦直後に、湛増法印の船倉から飢えのみちている陸のちまたへ、またもや、捨て猫のように捨てられたのではなかったろうか。                              

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next