こんな不慮な出来事もあったが、ほどなく軍の列は、東の方へ流れて行った。そして群集も、その中の花売りたちも、また、夜を待つ野遊女ら群れも、いつか散らばってしまったが、ただ一人、道ばたの木にもたれて、いつまでも、うつろの眼をしていた女がある。 ──
今朝からその辺の小屋の横で、顔を埋めたまま動かずにいた、あの妙な上臈
くずれであった。 「ああ、田辺の軍勢も、あの人もいなかった。見えたらと思ったけれど・・・・」 ふらふらと、歩み出し、元の小屋の横へ行って、また、さっきと同じような形で、何か考え込んでいた。日が暮れるまで、顔を埋めたきりだった。 「ああ、何を考えていたのだろう、このわたくしは。・・・・なぜさっき、わたくしは返辞をしなかったのか。田辺に帰れる身ではなし、どうせもう、こんな体・・・・」 夕方の星を見ると、かの女は急に烈しい飢えに衝つ
かれて来たらしい。誇りを失った女の体と、責めと飢えとに、鞭むち
打たれて、かの女は突然、何かへ向かって盲目的に走り出した。 たった今、文字ヶ関から着いた旅人の通船が、がやがや?船もやい
を取っていた。 相手を待つ野遊女たちの群れが、物を食べ食べ、そこかしこに、佇たたず
む影を夕靄ゆうもや にぼかしている。──
どこか、うつつもない、しかし、餓死と闘っているような、必死な眼をした先の上臈は、その仲間の前へ来て、いきなり何か話しかけた。と思う間に、皆の足もとに泣き倒れた。 どっと、女たちが笑い出す。 また、それを怒って、上臈をなぐさめ、励ます声もしていた。 その晩から、ここの埠頭に、きれいな売女が、また一人ふえた。──
その女が、かつては、田辺の女王とも言われたの、さくらノ御ご
であったというのは、ほんとか伝説か、なにしろ、朱しゅ
中に溶け込んでしまった朱なので、はっきりしない。 もし本当だとすれば、平家の滅亡からぜひなく身を落としたあわれな夜の花のうちでも、さくらノ御ご
だけは、ただ一人の例外であったと言えよう。 なぜなら、かの女にみは、たしかに籍は源氏にあり、源氏の女だったはずである。なお臆測おくそく
をつけ加えるなら、おそらく合戦直後に、湛増法印の船倉から飢えのみちている陸のちまたへ、またもや、捨て猫のように捨てられたのではなかったろうか。
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