「ここ彦島は、出入りも悪く、幸い、神器の二つも収め得たれば、よそへ陣所を移そう。どこか他によい陣所はないか」 義経が左右の者へたずねると、畠山重忠、熊谷直実など、先に陸上隊として周防、長門を駆け下った覚えのある面々が、 「ならば、豊浦
の地が、便もよいかと思われまする」 と、ひとしく答えた。 赤間から東北へ一里半ほどな社家町。── 平家の陸兵が火を放って退き、そのさい大半は焼亡したものの、なお忌宮いみのみや
、三ノ御所など、豊浦とよら の宮址みやあと
の建物は残っている。かたがた、山陽道の往来にもあたり、都や鎌倉との飛脚、糧食の運輸などにも、ここよりははるかに都合がよいと言うのである。 「さらば、その支度せよ、あすにても」 にわかに、事はそう決まった。 赤間を避けたのは、そこに梶原の営があり、治安に当っているので、部下と部下との喧嘩けんか
や、もつれを避ける考えであったのだろう。 それと、もうひとつは、一刻も早く、彼は都へ還りたかった。 必ずや、帰還の御命があるだろうし、先にやった飛脚の状も、すでに、今日ごろは、院の門前へ着いているはず。 折り返して、院のお使いが、下向してくる間の日数さえ、今は、待ち遠しくてたまらない義経だった。 本来ならば、戦捷せんしょう
の大将軍だし、名も威風も、大きく謳うた
われている時である。── 彼も梶原のように得意がり、治下の民どもへ、君臨していれば、ここ最大な有卦うけ
に入った時だろうに、彼には、この旧戦場が辛くなっていた。 わけて、彦島にいて、元の女房の柵さく
の空しさを見、幾多の平家人をのんだ浪音を、夜に朝に、耳にしているのは、耐えられない思いだった。 一日も早く、修羅しゅら
の跡から、身を洗って脱のが れたい。都にいる静しずか
に、この姿を見せもしたい、見もしたい。── 血臭い姿で、戦禍の民へ、戦捷の将軍として臨んでいるよりも、どれほどましなことかと思う。 義経は、その夜のうちに、豊後にある範頼の陣所と、赤間の梶原の許へ
「── 明後日、豊浦とよら へ移陣。別儀あるに非ず」
の旨を、知らせた。 これは四月上旬のこと、捷報の飛脚が、院へ着いた夜の、翌々日ごろであったから、すでに院使信盛は、院宣をおびて、西下の途中にあったわけである。 |