〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/04 (金) ちょう かい (四)

二位ノ尼が抱きまいらせてともに入水した童形の君は、安徳天皇ではなく、べつなたれかのお子であったかも知れない。いん母の女院が抱きまいらせず、尼がお連れ申し上げたというのからして、第一不審である。
── というような疑問が、ひとり義経の胸ばかりでなく、当時の仮説として立てられ、人びとのささやきに流れたのも、それを確証する何ものもないからであった。
もし、余人の和子を、みかどのおん身代わりにと、計るならば、それは不可能なことではない。
二位ノ尼と、典侍と、その子の親人おやびと などが、結束すれば、それは出来る。
一門の内には、みかどと同い年ぐらいな童形は幾人もいたのである。
権中納言知盛の子にも、ちょうど九ツほどな童がいた。
あるいは、知盛が?
薄々うすうす 、それも義経には、想像されないことではなかった。
知盛の戦ぶり、彼の平常。
思い合わせると、知盛は、戦いの前から、すでに何かの大計を、覚悟とともに、胸に描いていたのではないかと思われるふしはいろいろある。
始終、尼と一つにいた修理大夫経盛など、わけて知盛の心を でていた長老である。知盛の計を、暗にたす けていなかったとはいえない。
おなじく衛士の大将、伊賀平内左衛門も、知盛には服していた。これはまた、長い流亡の月日、みかどのお側を離れず、おりには、みかどを、てんぐるまに乗せて山路を越えたりどして来た者であるから、もし秘計を語られれば、意義を言うはずもない。
がここに、仮説の謎は一応解き得ても、なお、たれよりも重要なお人がある。
いうまでもなく、帝のおん母である。
もし知盛が、一門の内のある人びとに言い含めて、みかどを、密かに遠く落としまいらせたにしても、なぜおん母のみは、後に残ったかという疑問がわく。
女院にもお聞かせせずに、それほどな計が行われたとも思えない。
また、御母子の仲、ありようはずはない。
しいて、そこも臆測おくそく すれば、女院までが、ともども落ち給えば、帝の御入水をよそおいこしら えても、院、鎌倉はもとより、世間も信じるはずがない。後々の禍を考えて、どんな山奥、あるいは、鬼ヶ島までも、かならず追討の軍が差し向けられよう。
・・・・で、責めを母の御一身に負うて、御子みこ との生き別れを、御子みこ の長いお行く末のため、お覚悟あったのではあるまいか。
涙ながら、周囲も、それをおすすめしたのではないか。
しかし女院は、それで御子のお行く末が、世の外にのがれて、一生安けく、ただの人間として生きて行ける ── という御先途に安心されても、残された御自身は、当然な空漠くうばく におかれ、あたりの人びとが、相つづいて入水するのを見られたとたんに、われにもあらず、いや引き込まれるように、おなじ飛沫ひまつ を追って身を投げられたものであろう。
そして、生きたくもあらぬこの世へ、再び武者の熊手くまで で、救い上げられるなど、数奇な運命の手に、一瞬、おん身をもてあそ ばれたものかとも、考えられないことはない。
だが、以上のことは、義経にも、当時のたれかにも、疑えば、疑い得られたというだけのことであって、時忠にせよ、その妻 そつつぼね や生き残った女房たちの口からにせよ、他へ語られたという事実はまったくない。
謎は、謎のままだった。
けれど、世上一般には、あくまで、みかどは御入水により、その御遺骸さえ知れぬ由が、逐次ひろく伝わり、特に都では、何の疑いもなく、信じられた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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