ぽつんと言って、しばし、頬のそげ落ちた面を、小さい灯に曝
していたが、やがてまた、 「いかようともただ、ここに捕われておる一門の片われをも、由縁ゆかり
の女子どもらをも、御助命給わるようお願い申す。わけて建礼門院のおん身はいうまでもなく」 「お気遣いには及ばぬ。── さしも、平家にお憎しみの院においてすら、みかどと女院のみは、きっと救い奉れとの、御諚ごじょう
もあったほどですから」 「そのうえの欲ながら、たとえ一郡半国なりと、平家の名にて扶持の領をお遺のこ
し給わらば、時忠の身は、どう罰せられようと悔いはない」 「心得ています。身の軍功に代えても」 そのことは、内応の条件として、時忠と彼との間には、誓書まで交わされてある。 しかし、時忠の内応は、充分にその効果をあげたとは決していえない。同時に義経の胸にも、時忠の望むような代償を、院や鎌倉が果たして容い
れてくれるかどうかの不安もなくはなかった。 だから壇ノ浦の帰結には、両者ともに、遺憾な思いやある不安が、尾をひいていたのである。とはいえ、海上のあの大乱戦、やむを得なかったというほかはない。 それにせよ、あきらめえないことは、幼帝を亡うしな
い参らせたことである。 帥そつ
ノ局つぼね もお側にいたのに、おん母の女院もおられたのに、なぜ、お救い出来なかったか。 以後、みかどの御遺骸ごいがい
も、千尋ちひろ の底の底を索さぐ
らせてまで、尋ねているが、義経の心のどこかでは、 (あのさいの前後、何やら解げ
せぬふしもなくはない。── あるいは?) という疑いが潜んでい、それは一度、時忠の胸の奥所おくが
を打ってみるほか、解く鍵かぎ
はないと、考えられていたのだった。 幼い御子みこ
、安徳天皇は、あのおり、ほんとに、わだつみの底へ、身を投げられたのか。 いや、べつな言い方をすれば、物のあいろも分からぬ夕やみと、人びとの気も魂も失せていたあの騒ぎの中で、二位ノ尼の抱きまいらせた童形の君が
── 相違なく、天皇そのお人であったか、どうか。 疑えないことはない。 義経は、日ごろの疑いを、今夜こそと、時忠の胸へ、糺ただ
してみたに違いなかった。 が、時忠がその夜、彼に得心ゆくような答えをしたかどうかは不明である。 なぜならば、以後の義経は、かりそめにも、安徳帝の生死に関しては、いずれとも、はっきりしたことを、人に語ったことがないからだ。 もちろん、公式には、みかどは御入水と称とな
え、 「ついに御遺骸だに、求め得られず ──」 と、遺憾の意を表した。しかし、彼の心情からすれば、もっと心からな悲しみと、その落度に対する自責があっていいはずである。左右の者にも、それはうかがわれたはずである。 ところが、必要ならざる限り、以後それには、触れまいとする風さえあった。 |