〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/03 (木) ちょう かい (三)

ぽつんと言って、しばし、頬のそげ落ちた面を、小さい灯にさら していたが、やがてまた、
「いかようともただ、ここに捕われておる一門の片われをも、由縁ゆかり の女子どもらをも、御助命給わるようお願い申す。わけて建礼門院のおん身はいうまでもなく」
「お気遣いには及ばぬ。── さしも、平家にお憎しみの院においてすら、みかどと女院のみは、きっと救い奉れとの、御諚ごじょう もあったほどですから」
「そのうえの欲ながら、たとえ一郡半国なりと、平家の名にて扶持の領をおのこ し給わらば、時忠の身は、どう罰せられようと悔いはない」
「心得ています。身の軍功に代えても」
そのことは、内応の条件として、時忠と彼との間には、誓書まで交わされてある。
しかし、時忠の内応は、充分にその効果をあげたとは決していえない。同時に義経の胸にも、時忠の望むような代償を、院や鎌倉が果たして れてくれるかどうかの不安もなくはなかった。
だから壇ノ浦の帰結には、両者ともに、遺憾な思いやある不安が、尾をひいていたのである。とはいえ、海上のあの大乱戦、やむを得なかったというほかはない。
それにせよ、あきらめえないことは、幼帝をうしな い参らせたことである。
そつつぼね もお側にいたのに、おん母の女院もおられたのに、なぜ、お救い出来なかったか。
以後、みかどの御遺骸ごいがい も、千尋ちひろ の底の底をさぐ らせてまで、尋ねているが、義経の心のどこかでは、
(あのさいの前後、何やら せぬふしもなくはない。── あるいは?)
という疑いが潜んでい、それは一度、時忠の胸の奥所おくが を打ってみるほか、解くかぎ はないと、考えられていたのだった。
幼い御子みこ 、安徳天皇は、あのおり、ほんとに、わだつみの底へ、身を投げられたのか。
いや、べつな言い方をすれば、物のあいろも分からぬ夕やみと、人びとの気も魂も失せていたあの騒ぎの中で、二位ノ尼の抱きまいらせた童形の君が ── 相違なく、天皇そのお人であったか、どうか。
疑えないことはない。
義経は、日ごろの疑いを、今夜こそと、時忠の胸へ、ただ してみたに違いなかった。
が、時忠がその夜、彼に得心ゆくような答えをしたかどうかは不明である。
なぜならば、以後の義経は、かりそめにも、安徳帝の生死に関しては、いずれとも、はっきりしたことを、人に語ったことがないからだ。
もちろん、公式には、みかどは御入水ととな え、 「ついに御遺骸だに、求め得られず ──」 と、遺憾の意を表した。しかし、彼の心情からすれば、もっと心からな悲しみと、その落度に対する自責があっていいはずである。左右の者にも、それはうかがわれたはずである。
ところが、必要ならざる限り、以後それには、触れまいとする風さえあった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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