〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/03 (木) だんうら きゃく (四)

義経の捷報しょうほう を持った飛脚の兵衛尉ひょうえのじょう 広綱ひろつな が、都へ着いたのは、月をこえた四月三日の夜であった。
つづいて翌四日。── 第二の壇ノ浦飛脚が、生捕り人、死人、手負ておい いなどの詳報をもたらして、院の門へ着いた。
すぐ、伝奏は、後白河法皇へ、奏聞に達しる。
いた したり、廷尉ていじょう (義経)
と、後白河は、叡感えいかん をこめて、義経の功をたた え、御喜色ななめならず、
「ただちに、集議せん」
と、 らせた。
右大臣九条兼実、内大臣徳大寺実定など、主なる公卿が続々召されて、その殿上で、平家全滅の捷報は公表された。
院の内外は、どっと、凱歌がいか に似たどよめきに沸いた。── 集議の結果、
「すぐ院使を西海へつかわされ、義経の軍へ、おねぎらいの御諚ごじょう を下し賜わるべし」
とあって、すぐさま、院臣信盛を、急派することになった。
信盛は、院宣を帯びると、わが宿にも帰らず、院の門からただちに、馬にむち を打って、長門へ下向した。
これが、五日の夜のことであった。
おなじく。
義経の出したべつの急使が、鎌倉へ着いたのは、都より八日ほど遅れて、四月十二日、鎌倉へ入府していた。
その日、ちょうど頼朝は、正装して、鎌倉の一丘いつきゆう へ、外出していた。
頼朝、義経などの父、故左馬頭義朝の霊廟れいびょう ── 南御堂の普請ふしん にかかってい、その柱建はしらだ(棟上式むねあげしき ) の日であったのである。
おりもおり、式場に臨んでいるさい、
「西海の九郎の君より、火急の御飛脚、何やら、御吉報のようにございまする」
とあったので、頼朝は、
「なに、九郎よりの注進とな、そも、何事やらん」
と、片時の間も、心から忘れ得ないことだけに、すぐさまその座で、披露を命じた。
座には、大江広元、筑後守俊兼、筑前三郎なども居並んでいた。
藤判官代とうのごうがんだい那通くにみち が、注進の状を捧げて、頼朝の前で読みあげる。
なんと、思いがけぬ、大捷報であったのだ。
那通が朗々と読む一句一章のごとに、頼朝の面は、忘我そのものになっていた。が、また半ば耳を疑うかのようであった。そしてようやく 「ついの平家を滅ぼしえたか。ついにわが大望も・・・・」 と、それが実感になって来ると、彼の頬を、感極まった涙がよどめなく流れていた。
「ひとえに、これも神冥しんめい の御加護。また亡父ちち 義朝のみたま も、あの世より助け給うてのことにやあらん」
頼朝は、那通の手から飛脚状を取って巻き収めると、鶴ヶ丘八幡の方へ向かって、しばし伏し拝んだまま、頭を上げなかったということである。
思うに、頼朝は、こんなにも早く、平家の滅亡を聞こうとは、思っていなかったに相違ない。まだまだ、西海の軍は長びくものと、長期の経営を苦悩していたことだろう。
なぜなら、つ三月上旬には、この鎌倉表から、平家追討の加勢のため、三十余艘の兵船を、新たに現地へ送っている ── 。また、長門地方は、昨年来の飢饉と聞いて、数日前も軍糧などを送り出したばかりである。
まことに、彼としては、夢かと疑われるような大捷の報だった。
しかし、この意外さは、用心深い頼朝に、べつな戒心を抱かせたのである。
年来の宿願を遂げたと思うと同時に、彼は即日、御家人の評定所衆を集合して、善後の策を議し、ただちに二名の特使を急派して、こう、西国軍へつたえさせた。
「三河守範頼は、なおその地にとどまって、跡の始末や治政を よ。── 九郎義経は、生捕り人どもを して、早々、上洛あるべきこと」
令書の表は、厳たる辞句であった。
感賞の言葉、ねぎらいの情などは、どこにもない。
頼朝の胸にあるのは、余りな意外の大捷から来た、義経への驚怖に似た気持と、将来へのおそ れであった。
それを、裏書するかのように、数日を いて、梶原景時からの、べつな飛脚も、頼朝の手に届いた。
頼朝は、自分の杞憂きゆう が、単なる杞憂でないことを、梶原の書面によっても自信を深め、 「── よい処置であった」 と、思った。先にすぐ発しておいた義経召還の令を、みずから満足していた。
── が、鎌倉の令書や、院使が、やがて長門へ着くまでには、なお半月余りの間があろう。
義経はまだ、何も知らない。
微妙な反射を持った兄頼朝の胸の奥をうかがえようはずもなく、やがて、彼を待つ都が、どんな運命を彼に用意しているやらも、知るよしはない。
彼はなお長門の一角にあった。そして戦いは終わりながら、戦い以上の、むずかしい人間葛藤かっとう と戦後の処理に、依然、心を疲らせていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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