義経の捷報
を持った飛脚の兵衛尉ひょうえのじょう
広綱ひろつな が、都へ着いたのは、月をこえた四月三日の夜であった。 つづいて翌四日。──
第二の壇ノ浦飛脚が、生捕り人、死人、手負ておい
いなどの詳報をもたらして、院の門へ着いた。 すぐ、伝奏は、後白河法皇へ、奏聞に達しる。 「致いた
したり、廷尉ていじょう
(義経) 」 と、後白河は、叡感えいかん
をこめて、義経の功を称たた え、御喜色ななめならず、 「ただちに、集議せん」 と、宣の
らせた。 右大臣九条兼実、内大臣徳大寺実定など、主なる公卿が続々召されて、その殿上で、平家全滅の捷報は公表された。 院の内外は、どっと、凱歌がいか
に似たどよめきに沸いた。── 集議の結果、 「すぐ院使を西海へつかわされ、義経の軍へ、おねぎらいの御諚ごじょう
を下し賜わるべし」 とあって、すぐさま、院臣信盛を、急派することになった。 信盛は、院宣を帯びると、わが宿にも帰らず、院の門からただちに、馬に鞭むち
を打って、長門へ下向した。 これが、五日の夜のことであった。 おなじく。 義経の出したべつの急使が、鎌倉へ着いたのは、都より八日ほど遅れて、四月十二日、鎌倉へ入府していた。 その日、ちょうど頼朝は、正装して、鎌倉の一丘いつきゆう
へ、外出していた。 頼朝、義経などの父、故左馬頭義朝の霊廟れいびょう
── 南御堂の普請ふしん にかかってい、その柱建はしらだ
て (棟上式むねあげしき
) の日であったのである。 おりもおり、式場に臨んでいるさい、 「西海の九郎の君より、火急の御飛脚、何やら、御吉報のようにございまする」 とあったので、頼朝は、 「なに、九郎よりの注進とな、そも、何事やらん」 と、片時の間も、心から忘れ得ないことだけに、すぐさまその座で、披露を命じた。 座には、大江広元、筑後守俊兼、筑前三郎なども居並んでいた。 藤判官代とうのごうがんだい那通くにみち
が、注進の状を捧げて、頼朝の前で読みあげる。 なんと、思いがけぬ、大捷報であったのだ。 那通が朗々と読む一句一章のごとに、頼朝の面は、忘我そのものになっていた。が、また半ば耳を疑うかのようであった。そしてようやく
「ついの平家を滅ぼしえたか。ついにわが大望も・・・・」 と、それが実感になって来ると、彼の頬を、感極まった涙がよどめなく流れていた。 「ひとえに、これも神冥しんめい
の御加護。また亡父ちち 義朝のみ霊たま
も、あの世より助け給うてのことにやあらん」 頼朝は、那通の手から飛脚状を取って巻き収めると、鶴ヶ丘八幡の方へ向かって、しばし伏し拝んだまま、頭を上げなかったということである。 思うに、頼朝は、こんなにも早く、平家の滅亡を聞こうとは、思っていなかったに相違ない。まだまだ、西海の軍は長びくものと、長期の経営を苦悩していたことだろう。 なぜなら、つ三月上旬には、この鎌倉表から、平家追討の加勢のため、三十余艘の兵船を、新たに現地へ送っている
── 。また、長門地方は、昨年来の飢饉と聞いて、数日前も軍糧などを送り出したばかりである。 まことに、彼としては、夢かと疑われるような大捷の報だった。 しかし、この意外さは、用心深い頼朝に、べつな戒心を抱かせたのである。 年来の宿願を遂げたと思うと同時に、彼は即日、御家人の評定所衆を集合して、善後の策を議し、ただちに二名の特使を急派して、こう、西国軍へつたえさせた。 「三河守範頼は、なおその地にとどまって、跡の始末や治政を観み
よ。── 九郎義経は、生捕り人どもを率ひ
き具ぐ して、早々、上洛あるべきこと」 令書の表は、厳たる辞句であった。 感賞の言葉、ねぎらいの情などは、どこにもない。 頼朝の胸にあるのは、余りな意外の大捷から来た、義経への驚怖に似た気持と、将来への惧おそ
れであった。 それを、裏書するかのように、数日を措お
いて、梶原景時からの、べつな飛脚も、頼朝の手に届いた。 頼朝は、自分の杞憂きゆう
が、単なる杞憂でないことを、梶原の書面によっても自信を深め、 「── よい処置であった」 と、思った。先にすぐ発しておいた義経召還の令を、みずから満足していた。 ──
が、鎌倉の令書や、院使が、やがて長門へ着くまでには、なお半月余りの間があろう。 義経はまだ、何も知らない。 微妙な反射を持った兄頼朝の胸の奥をうかがえようはずもなく、やがて、彼を待つ都が、どんな運命を彼に用意しているやらも、知るよしはない。 彼はなお長門の一角にあった。そして戦いは終わりながら、戦い以上の、むずかしい人間葛藤かっとう
と戦後の処理に、依然、心を疲らせていた。 |