〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
壇
(
だん
)
ノ
浦
(
うら
)
の 巻
2014/07/02 (水)
壇
(
だん
)
ノ
浦
(
うら
)
飛
(
び
)
脚
(
きゃく
)
(二)
昨日、今日。
やっと、お気づきになって、われに返った
御容子
(
ごようす
)
とは聞いているが、海から救われたのは、女院おひとりだけである。おん肌身のそばには、当然、みかどの御声もない。
母子の生木をも無残に引き裂く戦の
酷
(
むご
)
さを、かつては、義経も身に知っている。その
呪
(
のろ
)
いに泣いた幼い日がある。
平治ノ乱だった。それからの母と子の別れ別れ。── 子をもぎ
奪
(
と
)
られた母の一生。
いつか、彼の建礼門院にたいする同情は、無意識に、そのころの母の常盤の姿に重なっていた。建礼門院の昨日、今日を、あわれと思うことは、そのまま亡き母を思う心と、一つになっていたのであった。
「・・・・そうだ、あの翌暁、沖よりここへお送り参らせたきり、ついぞまだ、御起居の様も、お見舞申し上げていなかったが」
にわかに彼は、廊を戻りかけた。
そして、女院の幽所としてある所の長い渡りを越えかけた。女院を見舞う心であった。── が、その時、後ろから、弁慶と忠信が、彼をさがし求めてきた。
何か、急用が出来たらしい。
先年来、九州へ攻め入って、豊後の一角に陣していた
三河守
(
みかわのかみ
)
範頼
(
のりより
)
が、梶原の案内で、船で
福良
(
ふくら
)
へ上がり、柵門へ訪ねて来たというのである。
「なに、三河どのが」
ほかならぬお人と、義経はすぐ戻って、範頼を迎えた。
範頼の副将、北条義時も一しょだった。
「めでたい御武運よ」
範頼は、顔を見ると、すぐ言った。型のような
戦捷
(
せんしょう
)
の
賀
(
が
)
を述べながらも、
「うらやましいお手柄」
などと言い、また、
「判官どのは、いつの戦にても、めぐまれておらるる。よほど、
軍神
(
いくさがみ
)
の
寵児
(
ちょうじ
)
という者であろう」
と、言ったりした。
ほとんど、豊後からは、彼が手出しをするひまもなく、壇ノ浦海戦は、一日一夜に終わってしまったからでもあろう。範頼としてはすこぶる張り合いのない、また何か、おおいえない
間
(
ま
)
の悪さがあったのは確かであった。
「いや、豊後の地に、頼りあるお味方の一陣がお控えあったればこそ、義経もそこは心安けく戦えたことでした」
慰められて、逆に淋しい気持にもなる。範頼や義時たちは、ほろ苦い顔だった。おそらくは、ああ急速に勝敗はつくまいと、豊後側では
観
(
み
)
ていたのであるまいか。そして義経の
疲弊
(
ひへい
)
が見えたら、討って出て、
大捷
(
たいしょう
)
の栄冠は自軍の手でと、意図しつつ、意図の通りに行かなかった結果なのかもわからない。
だがこの大きな
戦捷
(
せんしょう
)
は、決して、義経一人の功でないことを、義経自身がたれよりも知っている。
むしろ、範頼軍の方が、ある意味では、辛酸を
舐
(
な
)
めて来たし、遠征の月日も、はるかに長かったのだ。
だから、範頼がしきりに運不運を
喞
(
かこ
)
って、義経をうらやんだのも無理ではない。その気持も察しられて、義経は
驕
(
おご
)
らず、誇らず、戦捷は協同の功であると慰めたのだが、それも得意な立場からいう一片の世辞愛想のようにしか、範頼には、聞こえなかった事かも知れない。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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