〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/02 (水) だんうら きゃく (一)

「殿、お目覚めでございましょうか」
「・・・・おっ、たれぞ」
「有綱にござりまする」
「さても、よう寝た。時刻は今?」
「はや、ひる ちかくで」
「ははは、底抜けに眠りこけたの。して何事か」
「つい、今ほど、宋人鋳物師そうじんいものしら一行が、昨夜お計らいの唐船にて、大瀬戸より外海へ出で、無事、帰国の途につきましたので、お耳にまで」
「院使親経どのと、奈良の使僧は」
「博多ノ津まで同船いたし、帰途、再びお目にかかって、仔細仔細しさい のお礼はその節にと、申し残して立たれました」
「まずは、一役すましたの。鷲ノ尾、いるか」
次の間から、童武者わらべむしゃ の鷲ノ尾三郎経春が走り出て来て。
「は、三郎、これにおりまする」
「鷲ノ尾か、ここ取り片付けよ」
「はい」
うが いして、髪など撫でつけよう。だがここは陣屋同様な仮御所。顔洗う掛樋かけひ の間などあるまいな」
「ご案内いたしましょう」
「あるのか」
鷲ノ尾の駈けるあとにいついて、義経は朝の身浄みぎよ めに立って行った。こうした朝を持ったのは、幾日ぶりかわからない。
そこは板囲いの仮殿かりどの に過ぎないが、掛樋から水の落ちているきよ めの もある。彼はそこへ入った。とともに、何か冷ややかな哀感に胸を打たれずにはいられなかった。
蒔絵まきえ鏡箱かがみばこ や櫛匣がおいてあり、梨地なしじ を打った優雅な布掛ぬのかけ も備えてある。思うにここは、女院のお化粧の間でもあったろうか。
── とすれば、幼いみかどが、陣中の朝な朝な、おん母の真白な手で、そのうない髪をくし けずられたり、お顔のよそお いをなされた跡にちがいない。わずか数日前までは、ここにそうした母子の姿があったのだ。
ざっと、口をそそぎ、顔を洗い終わるやいな、義経は急いでそこを出た。なぜか、彼の胸には き母の常盤ときわ が、急に思い出されたのである。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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