〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/07/01 (火) うつつゆめ (三)

ふしぎなことを耳にするものかな」
義経はその後で、何かの幻覚か、披露の余りふと見た一場いちじょう の夢ではなかったかと、疑った。
今、残党狩りの手にかかって行った男が、平家の単なる有縁うえん の一人としても、その男が、しきりに、奥州と口走り、吉次と喚いていたのは、一体たれをさしてのことか。
義経はすぐ遠い以前の金売り吉次を思い出していた。しかし 「・・・・よもや」 と疑われ、どうにも急には信じられなかった。
── それにしても、吉次を思い出したことにつれ、鞍馬くらま 以来の過去さまざまが、にわかに、振り返られていた。
荒壁の亭の小窓にひじ をもたせ、うつらうつら半睡はんすい の間に、過去十年の幻が、行く雲のように、彼の疲れた頭の内を通って行く。
武蔵野を飛ぶ雲があり、みちのくの吹雪を包む灰色の雲も行く。兄頼朝を慕って、箱根路を越えたあの日の雲、わけてその夜、兄弟邂逅のうれし涙に泣きぬれた眼で仰いだ黄瀬川きせがわ の陣の、夜の雲は忘れ難い。
「・・・・兄はどんなによろこ んでくれるだろうか。昨暁、この地から出した飛脚は、遅くも月を越えた四月十日がらみには鎌倉に着く」
一別以来の、書きたいことは、やまやまあった。だが、公私の混同を厳しく みきらう兄である。忍んで、兄弟の慕情などは筆の端にもしなかった。ただ、平家亡ぼしおわんぬ ── という捷報しょうほう のみを送っておいた。しかし聡明そうめい な兄夫婦のこと、文のうら まで充分読み取ってくださるに違いない、と思う。
みずから功を誇るではないが、寡勢かせい を率いて鎌倉を出た日から、粉骨砕身、つねに一死をかざして来た。そして兄の望みどおりな源氏の世をここ三年余にして招来した。── 思えば、どっと、疲れが出た気がするのも、われながら無理とも思えぬ。
「・・・・が、まだまだ心をゆる めるなどはいたしません。勝ってかぶと とやら、一そう心をひき めましょう。今はただ。黄瀬川の御陣にて、初めて兄弟の体面をとげたおり、手を握り合うて、ともに平家を討とうぞと兄君も仰った。あの日の誓いに、おこたえ申したばかりです。義経のこの本望は、同時に兄君の御本望でもありましょう。飛脚の状をお手にされたら、よくぞと、遠いお胸の内で言ってくださるものと思っています」
居眠っているつもりの頬にいつか涙が白々と流れていた。
義経はその冷たさに、面を上げ、無意識の手で、頬をむぐった。
なお幾多の難が前途にある。気はゆる められぬ、と戒心しているつもりだが、このうつらうつらは、決して健康な眠り心地ではない。極度な心身の疲労から来る半醒半睡はんせいはんすいの夢うつつだ。 「・・・・これでは、ならぬ」 彼は卒然と、心にむち 打って、突っ立った。
そして、深夜の星の下へ、気を持ち直すべく、たたず み出ると、そこへ有綱が戻って来た。彼の前にひざまずいて、
「御意、相違なく、沖の伊勢どのへ伝え、ただちに手配にかかりました。渡宋とそう の船は、朝ごろ、赤間の船着きへ ぎまわされて参りましょう」
と、復命した。
「そうか。さらばその由、奈良の使僧と、親経どのへ、すみ やかに聞かせて上げよ」
「はっ」
「そして、かなたのむね に控えおる忠信らに申せ。義経の前へ馬をひけと」
「かしこまりました」
有綱が去る。── まもなく、行き違いに、忠信らが、彼の前にこま を引いて来た。
義経は、彦島へさして帰った。
宿所は、みかどのいた旧御所ふるごしょ である。途中、小瀬戸の渡しもある。当然、夜半を過ぎていた。
軍兵のかが が昼をあざむくばかりだった。これはここの囲いの内に、建礼門院をはじめ、平家一門の大事な生捕り人を収容しているための警固らしい。
柵門さくもん を入った義経は、その夜初めて、よろい だけを外し、空洞くうどう のような一間に身を横たえた。眠るべく飲んだ一瓶いっぺい の酒がひどくまわって、木枕を当てがうやいな、どかんと、奈落ならく へでも落ちたように、正体もない顔になった。四面の海音かいおん にくるまれながら、めずらしく、深い鼾聲いびき にその心身はいたわ られていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next