〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
壇
(
だん
)
ノ
浦
(
うら
)
の 巻
2014/06/29 (日)
壊
(
こわ
)
す
人
(
ひと
)
び と
建
(
た
)
て る
人
(
ひと
)
び と (二)
あれはもう六年前。── 治承四年の
年暮
(
くれ
)
であった。
清盛の死んだその春先のつい数箇月前のこと。
奈良の東大寺、興福寺、大仏殿など、みな
灰燼
(
かいじん
)
になった。
平家の軍兵が放火したのである。── そのおりの大将が、一ノ谷で捕われて、後に鎌倉へひかれた
平
(
たいらの
)
重衡
(
しげひら
)
であったのは、今さらここでいうまでもない。
また、その年以後の
大飢饉
(
だいききん
)
、木曾の
蜂起
(
ほうき
)
、諸国のみだれ、洛中の暗黒状態、やがてまた、平家一門が都落ちの
業火
(
ごうか
)
やら宇治川、一ノ谷の合戦と、明け暮れもない地上の騒ぎは言うまでもない。
まるで、地獄の数年だった。世をあげて人は暗夜行路の思いに寿命をちぢめて来た。
ところが、今。
義経は、はるばる奈良から来た二人の使者を前に、彼らの語るところを聞いて、実に意外な思いに打たれずにはいられなかった。
そんな地獄の歳月と
修羅
(
しゅら
)
のちまたにありながら、ある一部の人びとは、治承の年に焼亡したあの巨大な大仏を、
聖武帝
(
しょうむてい
)
が
建立
(
こんりゅう
)
された当初の姿に
還
(
かえ
)
そうという願望を立て、一日もたゆまず、再建の
勧進
(
かんじん
)
と工をすすめていたというのである。
もちろん、後白河法皇の発唱である。
とにかく政略ずきな ── またそのための犠牲者などはなんとも思われない冷酷、無節操な
法皇
(
きみ
)
── とも
観
(
み
)
られて、しばしば、あの清盛をも怒らせ、清盛とも火花を散らすような
肚
(
はら
)
の闘いをなされたものだが、さても後白河とは、驚くべきお人である。底知れないお人柄ではあると、義経は今、使者たちの話を聞いているうちに、おそろしいほど、それを感じた。
自分たちは、ここ幾年を、天下の分け目とも、
開闢
(
かいびゃく
)
以来の大乱とも考えていたのに、院にあっては、もう一方で、平和の日のために、そんな大事業の勧進を、着々進めていたのであったか。
なんたる、大きな眼、
綽々
(
しゃくしゃく
)
たる余裕だろうか、と舌を巻かずにはいられない。
── 使者たちの話を、なお聞けば聞くほど、いよいよ驚かれるばかりだった。
大仏再建の命は、初め、
法然
(
ほうねん
)
上人へ下されたが、法然は辞して、
「
重源
(
ちょうげん
)
こそ、その任の人」
と、
薦
(
すす
)
めたので、当時六十一歳の
智識
(
ちしき
)
重源上人に、
除目
(
じもく
)
、
宣旨
(
せんじ
)
が下ったものだという。
重源は、
宋国
(
そうこく
)
へ三度も渡航している。そして宋の育王山では
伽藍
(
がらん
)
建築にも従事した経験がある。衆望は厚く、意志は強い。──
造大仏使
(
ぞうだいぶつし
)
長官の行隆とともに、一山を督し、七道諸国に、僧を派して 「── 一紙半銭の奉加、尺布寸鉄の寄進なりと、大仏再建のため、
喜捨
(
きしゃ
)
なし給え」 と、勧進してまわらせた。
彼みずからも、
老躯
(
ろうく
)
を一車輪に乗せ、道俗男女の間を、暇があれば、説いて歩いた。
そして寿永二年の春に、まず大仏の御首を
鋳
(
い
)
始
(
はじ
)
め、次ぎに右手、次に左手と、年々難事業もすすみ、ついに去年の秋をもって、仏体の総仕上げ、
鍍金
(
ときん
)
から
研磨
(
みがき
)
も完了を告げたというのである。
その工費や
鍍金
(
ときん
)
の料には、頼朝から米一万石、絹一千疋、
沙金
(
さきん
)
一千両が寄進され、また奥州の秀衡からは、沙金五千両の合力があったという。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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