戦
はまだ終わっていない。── 少なくも、義経にとっては事実そうであった。 ついに、入水された幼帝の御遺骸ごいがい
もまだ見つからず、海底と思われる神器三種のうちの二品も、いまだに捜し当らない。 「軍いくさ
には勝ったりとて、なんの手柄」 と、彼は麾下きか
へも強く言った。もちろん、自責の言ではある。 彼はあれ以来、具足を解いて寝てもいない。昼夜の捜海を、船上から監督しながら、一面にはなお当然な、戦後の急務も山ほどあった。 陸上の治安と、何百人にのぼる雑兵の生捕りなどは、これを梶原の手にゆだねたが、しかし義経としては心もとない何かを抱いていたのであろう。──
海中から救い参らせた建礼門院や前内大臣宗盛などの一門の捕虜と、女房たちの群れは、自身の手で、ひとまず彦島へ送り、かつての仮御所の内に封じて、そこの守りも、直臣にあたらせていた。 また、何よりも、急がれたのは、この戦捷せんしょう
を、都と鎌倉へ、報じることであった。 院の後白河へも一通。 べつに、鎌倉の兄頼朝へも、心をこめた一状をしたため、同日に、飛脚を立たせた。 まだ、精細な調べもつかないので、ざっとではあったが、それには、生捕り人、降人、戦死など、平家方の主なる者の主なる者の名だけが書き上げられていた。 その、生捕り人名簿には
|
前さきの
内大臣宗盛 子息、右衛え
門督もんのかみ 清宗 |
|
を筆頭に、 |
平大納言時忠 嫡子、讃岐中将時実 二位ノ僧都そうず
専親 内蔵頭信基 法勝寺ノ能円 主馬判官盛国 美濃前司則清 藤内とうない
左衛門尉信康 源大夫判官李康 摂津判官守澄 兵部少輔ひょうぶのしょうゆう尹明まさあきら
中納言ノ律師仲快 内府子息ノ童形八歳、字あざな
副将丸ふくしょうまる |
|
など、三十八人が列記された。そのほか、海や女房船から助けられて、生存者中になお名の見える女性たちには
── 建礼門院をはじめ、 |
北ノ政所まんどころ
臈ろう ノ御方 大納言佐すけ
ノ局つぼね 治部卿ノ局 帥そつ
ノ局つぼね |
|
などがあり、女人の捕われのみでも、総数四十三人と註しる
された。 また、入水、自害、行方知れずの人びとには、 |
幼帝 八条院 中納言教盛 権中納言知盛 修理大夫経盛 能登守教経 |
|
などの名が書き上げられたが、しかし、以下の数は不明とされた。さらにまた、衆目の中で、討死を遂げたと見られた者には、 |
左馬頭行盛 小松新三位中将資盛 同じく少将盛 権藤内貞綱、貞重兄弟 備中びっちゅう
吉備津きびつ ノ神主かんぬし
|
|
などの名があった。 以上のほか、敵の死せる者八百余人、雑兵の捕虜は、数知れずとし、また、降参人の主なる将としては、筑紫の松浦党や原田党や、四国の阿波民部の名もはいっていた。 しかし、平大納言父子までが、生捕りの簿ぼ
に入れられているのは、どうしたわけか。 前後のいきさつ、一応、そうしなければならない事情にあったためか。今日の裏面は、すべて義経が一存に行われてい、いちいち鎌倉殿の意を仰いだことではない。同陣の軍監梶原すらも、全然知っていないことだった。で、時忠父子の扱いには、微妙な心づかいを要し、義経ひとりが、何かを腐心していた様子が見える。 ともあれ、義経の心身は、形を変えた忙しさに責められていた。 ──
で、今宵だけは、せめて一睡でもと心に願い、今日も空しかった捜海の沖から、たそがれ早目に、彦島へ船を返して来たのだった。 が、その小憩こやす
みも、許されないことが出来た。 というのは、思いがけない奈良の使僧と、院の一公卿が、はるばる都から下って来、その日、彦島で彼を待ちわびていたのである。 公卿は、宮内権少輔親経で、連れの奈良法師とともに、東大寺の大仏再建の工に当っている造大仏使ぞうだいぶつし
左少弁さしょうべん 藤原行隆ふじわらのゆきたかの下にいる者だと告げた。 で、行隆から義経宛ての書状、また、院の下文くだしぶみ
も、携えており、それを示して、 「渡宋船とそうせん
一隻に、食糧万端の物を載せ、急いで、お調ととの
え給わりたい」 と、いうのであった。 |