〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/22 (日) げん じん (一)

ちょうど、時忠のことばが、終わったときである。
舷側の下から、渡辺源五むつる が、異様な昂奮を顔に持って、上がって来た。
そして、ひざまずいて言うには。
── たった今、熊手くまで にからめ救い上げた一女性を、義経の大将船に移して、さっそく介抱して上げていたところ、同様に救い上げられていた辺りの女房たちが、その女性の仮死状態な美しいお顔をひと目見るやいな 「── あらもったいなや、みかどのおん母、建礼門院にましますものを。むざたる粗相そそう なせそ。手荒になし奉るな」 と、声をあげて泣き伏したので、初めて、源氏のともがら も、さてはと知ったようなわけであったという。
で、とりあえず、むつる は、その報告と、さしあたっての指図を仰ぎに来たものだった。
悲愁をふくむ救いの色が、たれの眉にも、心の影となって、浮かんで見える。
義経もまた、やや明るい色と憂いとを、語気に交ぜて、
「して、おん命には、別状もない御容子か」
と、むつる へたずねた。
「されば、少々水をのませられて、おん眼も深く閉じ給い、一時は御蘇生ごそせい もいかがかと案じられましたが」
「では、お気づきなられたのだな」
「大事にはいたるまいかと拝されまする」
「・・・・む。このさいのこと、にわかな薬餌やくじ とてままならぬが、出来るだけのお手当てをしてさし上げよ」
「かしこまりました」
義経は、さらに、口忙しく問いつづけた。
「なお、みかどは?」
「はっ」
「みかどのお行方は、まだ波間より探りえぬか」
「仰せをこうむったわれらを始め、諸勢の船も、伝え伝えて、一同躍起となって続けておりますが」
「ゆめ、これまでと、あきらめまいぞ。夜を徹しても、玉体をお捜し申し上げよ。かたがた、神器の二品も、二位どのが身に帯びて沈みたりとのこと。夜にはいるも、船陣解くな。潮の底の底までをかき捜せと触れ渡せよ」
「心得まいた」
渡辺わたなべ むつる は、すぐ去って、下の小舟へ降りて行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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