見ると、仮の賢所の前に、泣きたおれている女房姿があった。帥
ノ 局つぼね にちがいない。 そばには、いつの間にか、桜間ノ介が寄り添っていた。しきりに、何事かを糺ただ
したり、また、なぐさめている様子だった。 「介すけ
」 と、義経は、彼を近くへ呼んで、 「 帥そつ
ノ局つぼね こそは、みかど以下、一門最期さいご
の様を、まざ・・ と眼に見た一人と思わるる。局は、なんぞ急な大事を、告げてはいないか」 「さ、気も顛倒てんとう
のように見うけられ、何問うても、今は心も乱れて詳くわ
しいことは物語れぬと、たださめざめと、悶もだ
えておられまする」 「むりもない、われらにせよ、手違いの仔細しさい
など、今は聞いてもおれぬ。が、なおこの船に生き残っておる平家人へいけびと
はたれたれか、舳みよし の方には、まだ一群の武者も潜みおると聞くが」 それには、たった今、弁慶が行くのを止めた時忠が代って答えた。 「しかとは申せぬが、ふとしたら、それは権中納言
(知盛) ではないかと思われる。── ほかには、伊賀平内左衛門家長も、たしかにいるはず」 「はて、知盛がこの船に?」 「先刻、陸くが
よりこれへいそぐ途中、権中納言は、はやみずからの手で、自身の大船を焼き、黒煙くろけむり
を後ろにして、将も兵も、多く小舟に乗りわかれ、波間へ四散して出た様子。・・・・そのうえ、ここの船御所へ来て見れば、覚えのある船印ふなじるし
の小舟も寄り合い、権中納言の郎党も見かけられた」 「では、戦もこれまでと、知盛はわが船を焼いて、ここへ移って来たものか」 「されば、みかどもここ、母の二位ノ尼もここ、また、妹君いもうとぎみ
の女院もここゆえ、せめて死所は一つにと」 「ああ、その願いでか。したが、その願いなら、彼はもはや、すでに海底の人ではないかの」 「いや、平家の最後の最後までを、眼に見届けぬうちは、めったに、死を急ぐ彼ではありますまい」 「とは、なぜに」 「およそ疾と
くより、この時忠の計はかり と心の底を、看破っていた者は、一門のうちでも五人ほどはあったでしょう。総領の内大臣おおい
の殿との 、能登守教経は、いわずもがなです。経盛どのや二位どのへは、わらから打ち明けたことすらある。が、知っても知らざるお顔でおられた・・・・」 「して、知盛は」 「甥おい
の権中納言こそは、たれよりも、時忠の心底を、よく知る者であったのです。しかも、この時忠へは、いささかな悪意も抱かず、叔父御は叔父御の思う策を取り給え、われはわれの信じる道につかんのみと、ゆかしき大将ぶりでおざった。──
が、その甥おい とも、牢舎にへだてられ、つい本心を語り合う日も得ずにしまったが、しかし心と心とは、常に通いおうていた。・・・・今も、甥の心が自分へ告げている。この船の舳みよし
に、なお妄念もうねん 深く、生きさまようている者あらば、それは権中納言のほかはあらじと。・・・・察するに知盛こそは、一言、何かを世に申し遺したさに、人を待っているのではなかろうか。──
何やらそう思われてなりませぬ」 |