〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/22 (日) 生 き て さ ま よ う て (四)

見ると、仮の賢所の前に、泣きたおれている女房姿があった。そつつぼね にちがいない。
そばには、いつの間にか、桜間ノ介が寄り添っていた。しきりに、何事かをただ したり、また、なぐさめている様子だった。
すけ
と、義経は、彼を近くへ呼んで、
そつつぼね こそは、みかど以下、一門最期さいご の様を、まざ・・ と眼に見た一人と思わるる。局は、なんぞ急な大事を、告げてはいないか」
「さ、気も顛倒てんとう のように見うけられ、何問うても、今は心も乱れてくわ しいことは物語れぬと、たださめざめと、もだ えておられまする」
「むりもない、われらにせよ、手違いの仔細しさい など、今は聞いてもおれぬ。が、なおこの船に生き残っておる平家人へいけびと はたれたれか、みよし の方には、まだ一群の武者も潜みおると聞くが」
それには、たった今、弁慶が行くのを止めた時忠が代って答えた。
「しかとは申せぬが、ふとしたら、それは権中納言 (知盛) ではないかと思われる。── ほかには、伊賀平内左衛門家長も、たしかにいるはず」
「はて、知盛がこの船に?」
「先刻、くが よりこれへいそぐ途中、権中納言は、はやみずからの手で、自身の大船を焼き、黒煙くろけむり を後ろにして、将も兵も、多く小舟に乗りわかれ、波間へ四散して出た様子。・・・・そのうえ、ここの船御所へ来て見れば、覚えのある船印ふなじるし の小舟も寄り合い、権中納言の郎党も見かけられた」
「では、戦もこれまでと、知盛はわが船を焼いて、ここへ移って来たものか」
「されば、みかどもここ、母の二位ノ尼もここ、また、妹君いもうとぎみ の女院もここゆえ、せめて死所は一つにと」
「ああ、その願いでか。したが、その願いなら、彼はもはや、すでに海底の人ではないかの」
「いや、平家の最後の最後までを、眼に見届けぬうちは、めったに、死を急ぐ彼ではありますまい」
「とは、なぜに」
「およそ くより、この時忠のはかり と心の底を、看破っていた者は、一門のうちでも五人ほどはあったでしょう。総領の内大臣おおい殿との 、能登守教経は、いわずもがなです。経盛どのや二位どのへは、わらから打ち明けたことすらある。が、知っても知らざるお顔でおられた・・・・」
「して、知盛は」
おい の権中納言こそは、たれよりも、時忠の心底を、よく知る者であったのです。しかも、この時忠へは、いささかな悪意も抱かず、叔父御は叔父御の思う策を取り給え、われはわれの信じる道につかんのみと、ゆかしき大将ぶりでおざった。── が、そのおい とも、牢舎にへだてられ、つい本心を語り合う日も得ずにしまったが、しかし心と心とは、常に通いおうていた。・・・・今も、甥の心が自分へ告げている。この船のみよし に、なお妄念もうねん 深く、生きさまようている者あらば、それは権中納言のほかはあらじと。・・・・察するに知盛こそは、一言、何かを世に申し遺したさに、人を待っているのではなかろうか。── 何やらそう思われてなりませぬ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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