〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/22 (日) 生 き て さ ま よ う て (三)

船外では源氏の兵が、救助の掃海に、潮騒しおさい をあげていたその間、とう の船御所の内では、さいごの大詰めへまで来た戦いの息の音に、まだ、とどめは刺されていなかった。
二十余年の栄花と権力とを、ともあれ地上に持った一門は、この破れ船一つにまで、姿を変えた。ここにいた男女の平家人も、例外なく、一刹那いちせつな に海の底に消え、みずから刃に伏し、青々とほの暗い夕べの気配のほか、今は人気ひとけ もないような船上であったが、なお、どこかには、平家終焉しゅうえん の切なげなあえ ぎがしているようであった。
「・・・・・?」
義経が、ここに立ったのは、たった今のことである。
意外な船内の静けさに、はっと立ちすく み、 「しまった」 と、思わずの茫然ぼうぜん を、どうしようもなかった。
彼としては、予期しない光景であったとみえる。── 戦いに ち、都への凱旋がいせん の名分さえ持つならば、こうまでに徹底的な処置を敵に下そうとは、初めから、思いもしていない彼なのだ。
「おお、殿には、ここでござりましたか」
後から来た弁慶がすぐ駆け寄って来る。
つづいて、忠信の声も、後ろに聞こえた。
「殿っ、御油断なされますな。せき としてはおりますが、かなたのみよし には、まだ、平家武者らしき一群れが、じっとうかがい澄ましておるらしい様子。船屋形にも船底にも、なお、いかなる敵が隠れおるやも計られませぬ」
「なに、まだ生き残っていた敵がおると?」
一途に、弁慶が躍って行こうとした時である。賢所かしこどころ の蔭でたれかが 「あ── 」 と、声を放ち、駆け出して来て 「しばらく」 と、弁慶を止めた。
「や、時忠のきみ と、讃岐どのか」
その時忠父子は、弁慶を いて、まず義経の影を見探していた。そして、
「そこにおわすは、判官どのよな」
と、すぐ前へ来てひざまずいた。
義経は二人を凝視した。── 特に、時忠の顔を、しげしげながめて、
「めずらしや、大納言どのか」
と、言った。── 所も所、境遇も境遇、七年前の彼と我とは、まったく逆な立場になっている。
義経は、感慨に打たれたが、しかし今の時忠には、そんな回顧など、面にも見せていなかった。
「さても、残念なこと。この時忠なり、判官どののお越しが、もう一足早かりせば、手の施しようもあったものを。・・・・まこと、わずかな手違いにて」
かれも、義経と同じ落胆に、茫然ぼうぜん としていたのか。すぐそれを言った。
「・・・・では早や、みかどの玉体とともに、神器も海の底へ?」
「いや、神鏡みかがみ唐櫃からびつ のみは、からくも、取り抑え置きましたが」
「ほかの宝剣と神璽しんじ の二つは」
「残念ながら行方も知れませぬ。自分がこれへ参ったときは、すでに仮設かりもう けの賢所かしこどころ御扉みとびら は破られてい、残されていたは唐櫃からびつ のみ・・・・」
「ああ、三種ノ神器のうち、ただ一品が無事か」
「時実をもって、あのように、誓書をおせがみ申し、その誓書も賜わった上からはと、一念、神器の隠滅をはば め、つつがなくお手渡し申さんと心をくだいたことではあったが」
「ぜひもない。おたがい、善意と手段は尽くしたことだ。これが、神慮というものであろう」
「おわびのほかはおざらぬ。ただこのように」
「なんの、神鏡みかがみ だけでも、とどめ得たのは、御父子の手柄よ。義経ひとりの計策はかり であったら、おそらく、それ一つだにかえ すことはむずかしかったに相違ない」
「おことば、なおつろ う覚える。・・・・手違いの因は、妻のそつ の使いが、意外に遅かりしため、御船勢への飛牒ひちょう も、われらの推参すいさん も、わずか一歩なれど、時を失うていたのであった。・・・・まことに不覚、その罪を、妻のそつ も、あれにて、泣きわびていたところなので」
時忠の言に、人びとは、眼をほかへやった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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