〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/22 (日) 生 き て さ ま よ う て (二)

すると、なおどこかで、
「あっ、主上も。二位ノ尼公あまぎみ も」
と聞こえ、まもなくまた、
「あれっ、女院さまが・・・・」
悲泣とともに、その後を慕うて、浪間にかき消えた女性にょしょう の幾人かも、幻影ではなく、まざと人びとの眼に見えた。── 驚破すわ こそ、主上も二位ノ尼も、建礼門院もまた、ともにそこらの波の下ぞ ── と呼び交わしながら、武者たちの熊手くまでなわ鉄爪かなづめ は、思い思い、血まなこな掃海に騒ぎ合った。
だが、熊手を入れてみると、潮の早さが、手にもわかる。
戦いはやみ、矢叫やた びは消え、海づらは夕凪ゆうなぎ のようだったが、底流は物凄い。
ひとたびのまれたら、あ ── という間もないであろう。しかし、さきに伊勢三郎らの船手に救い上げられた宗盛父子のように、ここでもあまたな入水者たちがたちまち救い上げられていた。
がただ、彼らの目標としている幼帝は、必死な捜査にもかかわらず、まだ見つからない。
二位ノ尼も、はや流されたか、上がって来ない。
そして僥倖ぎょうこう か、はた、最大な不幸か、みかどのおん母の建礼門院だけが、青黒い早潮の三尋みひろ 四尋よひろ の下で、鉄爪かなづめ の付いたなわ 先に懸り、兵どもの手に手繰り上げられようとしていた。
「あっ、長い黒髪が」
女性にょしょう だ、女性らしいぞ」
口々に騒いでいたのは、渡辺党の一艘であった。
渡辺右馬允源五むつる は、ほかの小舟にいたが、つと ぎ寄せざま、渦斑うずふ に浮かび出たあや しいばかり美しい生ける空骸むくろ の乱れへ、いきなり熊手をさし伸べた。
熊手の歯は、五衣いつつぎぬ のどこかを、まきつけたが、黒髪までが、藻草もぐさ のようにから まった。
むつる は、この世と死との境をなすスレスレな潮の中に、まるで真珠の肌のような容貌かんばせ や手足を見た。何か 「・・・・ただ人ならじ?」 という気がしたのであろうか。徐々に、熊手を引き寄せながら、向こう側の船の兵どもへ、
なわゆる めろ。もしや鉄爪が女性にょしょうあぎと へでも引っ懸っていたら、死なせぬまでも、怪我させようぞ。── 大丈夫、女性の体は、熊手にからめて、こなたの舟へ引き揚げるゆえ、縄は捨てよ」
と、怒鳴っていた。
とはいえ、これが幼帝のおん母とは、もちろん、彼らもまだ知ってはいなかったのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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