すると、なおどこかで、 「あっ、主上も。二位ノ尼公
も」 と聞こえ、まもなくまた、 「あれっ、女院さまが・・・・」 悲泣とともに、その後を慕うて、浪間にかき消えた女性にょしょう
の幾人かも、幻影ではなく、まざと人びとの眼に見えた。── 驚破すわ
こそ、主上も二位ノ尼も、建礼門院もまた、ともにそこらの波の下ぞ ── と呼び交わしながら、武者たちの熊手くまで
や縄なわ や鉄爪かなづめ
は、思い思い、血まなこな掃海に騒ぎ合った。 だが、熊手を入れてみると、潮の早さが、手にもわかる。 戦いはやみ、矢叫やた
びは消え、海づらは夕凪ゆうなぎ
のようだったが、底流は物凄い。 ひとたびのまれたら、あ ── という間もないであろう。しかし、さきに伊勢三郎らの船手に救い上げられた宗盛父子のように、ここでもあまたな入水者たちがたちまち救い上げられていた。 がただ、彼らの目標としている幼帝は、必死な捜査にもかかわらず、まだ見つからない。 二位ノ尼も、はや流されたか、上がって来ない。 そして僥倖ぎょうこう
か、はた、最大な不幸か、みかどのおん母の建礼門院だけが、青黒い早潮の三尋みひろ
四尋よひろ の下で、鉄爪かなづめ
の付いた縄なわ 先に懸り、兵どもの手に手繰り上げられようとしていた。 「あっ、長い黒髪が」 「女性にょしょう
だ、女性らしいぞ」 口々に騒いでいたのは、渡辺党の一艘であった。 渡辺右馬允源五眤むつる
は、ほかの小舟にいたが、つと漕こ
ぎ寄せざま、渦斑うずふ に浮かび出た妖あや
しいばかり美しい生ける空骸むくろ
の乱れへ、いきなり熊手をさし伸べた。 熊手の歯は、五衣いつつぎぬ
のどこかを、まきつけたが、黒髪までが、藻草もぐさ
のように絡から まった。 眤むつる
は、この世と死との境をなすスレスレな潮の中に、まるで真珠の肌のような容貌かんばせ
や手足を見た。何か 「・・・・ただ人ならじ?」 という気がしたのであろうか。徐々に、熊手を引き寄せながら、向こう側の船の兵どもへ、 「縄なわ
を弛ゆる めろ。もしや鉄爪が女性にょしょう
の腮あぎと へでも引っ懸っていたら、死なせぬまでも、怪我させようぞ。──
大丈夫、女性の体は、熊手にからめて、こなたの舟へ引き揚げるゆえ、縄は捨てよ」 と、怒鳴っていた。 とはいえ、これが幼帝のおん母とは、もちろん、彼らもまだ知ってはいなかったのである。
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