〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/22 (日) 生 き て さ ま よ う て (一)

たとえば、万宝の形象を焼き尽くした業火ごうか も、しずまる直前には、白、紫などの美しい火の色をあらわし、そのほのお は何か冷たいもののようにすら思われて来る一瞬ひととき がある。
物質とともに、妄執もうしゅう や愛憎の心の巣も焼かれ、 まされた迷夢のまえに、無常むじょう が降りて来るからであろう。
たしかにその瞬間だけは、どんな人間でも、虚脱の中に何かをさと る。敵味方なく、はかない者同士な人間である悲しみにも思い知らされずにいあない。── がまた、たちどころに、直前の自我に返る。そして、名利と闘争のうちにおめ きあう宿業しゅくごう に取り かれて、かえり みもない元の人間になってしまう。
・・・・・・・。
今、それに似た真空のような静寂しじま と、すぐ次の、武者狂いとが、壇ノ浦にも見られた。西の日輪が、さいごの光耀こうようせき とひそめ、波々々、船々々、すべてが暮色とへん じた寸秒の境にであった。
わけて、船御所の黄旗をそれと知った源氏の船影は真っ黒に寄っている。捕鯨者の群が巨鯨きょげい に向かってもり を打ち込もうとする競いにも似てすさ まじい。
「あれぞ、平家方の秘船かくしぶね 。主上、女院もあの内とみゆるぞ」
「はやくも、判官どの御自身、小舟を寄せ、船上へ踏み上がられて行った様子」
「またしても、功をかの君に成さしめたるか」
勝ったと誇る寄手よせて が、敵の本丸へ、一せいに雪崩なだれ 込むあの勢いの 様が、ちょうどそのまま、全源軍の船勢の、波間波間に見せた動きだったといってよい。
その中には、梶原父子と、その一族の船々。
安田義定船手。
田代冠者たしろのかじゃ、佐々木盛綱、高綱。
庄ノ三郎、大内惟義おおうちこれよし
さてはかの別当湛増たんぞう の田辺水軍やら、河野通信こうのみちのぶ らの伊予水軍など、およそ、遠くにいた船まで、ここに蝟集いしゅう する味方を見て、 「さては」 と皆、そのみよし を一点へ集めて来る様子であった。
しかし、それらの動きは、義経がすでに、船の御所の内へ、踏み込んで行った事後だったのは、いうまでもない。
義経はべつに何か、思うところがあったらしく、単身、躍り入っていた。── と見て二、三の郎党も、直ぐ彼の後から舷側を じ登っていたが、しかし、それは義経の命ではない。彼ら自身が 「万一、殿のおん身に大事あらば」 と、制止もきかず、続いて行ったものである。その郎党とは、弁慶や忠信や、桜間ノ介などであった。
が、ほかの小舟小舟は、 「下にとどまれ」 と、べつに大事な命を受けていた。── で、すぐ続いて来た伊勢三郎、後藤兵衛ごとうひょうえ らの大船も、近くに漂っていたのである。
果たして、人影の乱れも定かでない船御所から、つづけさまに男女の姿が海へ身を投げ、ざぶん、ざぶん、つぎつぎに白い飛沫ひまつ を揚げたので、
「すわ、一門の平家人へいけびと が、今はと、覚悟の入水を遂げるらしいぞ」
「名だたる公達や女房たちもおわすらん。かき上げて、生き捕りにせよ」
と、彼らの熊手くまで鈎棒かぎぼう などは、消えやらぬ苦悶くもん水泡みずあわ がそこら一面に白々と明滅している夕潮の中を、まるで魚介ぎょかい でも探るように、かきまわしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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