〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/22 (日) 波 の 底 に も 都 の 候 う (二)

この時どこかで、すさ まじい武者声がし、続いて、ずずんと、烈しく船が れた。船じゅうの絶叫は 「敵ぞ」 「東国武者が せたるぞ」 という以外の声ではなかった。
船底の暗がりにも、女性の叫びが起こっていた。女童めわらべまじ え、そこの穴口から外へ、いちどに、黒髪と の女房たちの群れがあふれ出て来た。まろび合い、すがりあい、泣き伏す人の上に、おり重なって泣いた。
悲泣といっても、号泣といっても、いい足りるものではない。彼女らは、こうなるとは思わなかった。なお何か一縷いちる のものに、望みをかけていたらしい。── みかど、女院、そつつぼね ── などを力として。
だが、一瞬の様相は、破滅以外のものではなかった。 「 う、みかどを、尼公のお手に」 と、むごい、冷たい叱咤しった が、事もあろうに、衛士の大将から叫ばれたりしている。
動顛どうてん せずにいられなかった。悲しさの限りをむせ び上げずにいられなかった。わが身の死は、ともかくである、彼女らとて、それまでには未練は持たない。むしろ、女性特有な心定めは、武者よりは迷いのないものがあったかも知れないのだ。彼女たちの慟哭するわけは、おいとけない白珠しらたま のような無邪気なみかども、世の薄命を身一つにあつめておいでのような建礼門院も、ついに、ご最期さいご のほかはないのかということだった。
同時に、自分たち身につばがる幼い者、死なせたくない者への、絶望もともなった。
「── 西の空、かなたの美しさを、御覧ぜられり。西方の浄土とは、かしこ。極楽の浄土とも申しまする。そこの久遠くおん の命のたのしみは、人の世の都どころではありませぬ。なんぼう、苦患くげん悪業あくごう も知らぬめでたき都やら知れませぬ。・・・・いで、尼が、お道しるべしてまいらせん。御子みこ さま、こう、尼におなら い遊ばせや、おん を合わせ、おねんぶつを仰せられませ」
尼のそばには、もう、そこへいざな われて、抱えるように立たせられたみかどのお姿が、おぼろに見えた。
山鳩色やまばといろ御衣ぎょい に、おぐしみずら・・・ に結わせ給い、つねの御癇症ごかんしょう や、だだっ子の、み気色もなく、ふしぎとお素直に、うなずいていらっしゃる。そして尼のするとおりに、小さいお を合わせられたようだった。とたんに、あっ ── と小さい叫びがし、お姿は、尼の体と一しょに、この世と、海づらの間を、さっとひるがえ りつつ、沈んで行った。
「さらば、おさきへ」
つづいて。経盛が、いとも淡々たる容子で、よろい姿に、僧衣の袖を、羽のように夕風に吹かせ、ざんぶと、永別の波音を下から告げた。
「さらば」
「── さらば」
ひきもきらず、ひとびとの入水する白い飛沫ひまつ と水音だった。その間、二位ノ僧都そうず 、法勝寺ノ能円、律師りっし 仲快、裕円など、数珠じゅず んで、声高らかに、読経をつづけていた。
── ひと群れの花束とも見える女房たちに取り囲まれて、建礼門院も、さっきから、涙に濡れもだえておいでのようであったが、とつぜん、彼女らの手を振りもぎって、 やお袖の色を、夕虹ゆうにじ のように逆しまにひき、あなと見る間に、波騒なみさい の底へ、姿を消しておしまいになった。
「あれっ・・・・。女院さま」
そつつぼね は、叫んだ。われを忘れて、
「女院さまが。たれぞ、早く」
と、賢所の方へ、走った。
すでに、源氏武者が、船内を駆けまわってい、中には、義経の姿もあった。
義経は、さっきから、舷側げんそく の下まで来ていたのだが、つぎつぎの抵抗に出会い、たった今、躍り上がって来たのであった。
すでに、人影少ない船内の状を見、また、帥ノ局の叫びに、耳をつんざかれて、
「しまった。ひと足、遅かったような?」
と、残念そうに、そのまま、立ちすく んでいたのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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