〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/21 (土) 波 の 底 に も 都 の 候 う (一)

知らないはずはない。
舷側げんそく の下の浪間には、知盛の家臣光李みつすえ やら、ほかの舟も、よそながら、ここの船御所を守っていたはずである。
だのに、いつのまにか、船上の賢所かしこどころ の前には、外部からの人影が忍び入って、御扉みとびら の前にたたず んでいた。
侍大将の越中次郎兵衛が気づいて、はっと、怪しみながら、
「たれぞっ。何者か」
近づいて行くと、二つの人影が、きっとこっちを振り向いて、次郎兵衛盛嗣もりつぐ を、恐ろしい眼で めつけた。
「あっ?」
驚きにしびれ、あとの声も出なかった。
平大納言時忠と、その子時実だったのだ。
尼公の弟、おん国母の叔父君、彼がすく んだのも無理はない。
だだだと、かかと ずさりに戻って来、平内左衛門のいる所へ来て、
「伊賀。すぐ来い。怪しきお人が賢所かしこどころ へ近づいておる。ただの異変ではないぞ」
と、その腕を引っ張った。
平内左衛門は、彼とともに、賢所にある艫の方へ駆け出したが、突然、組まれていた腕を逆用して、ずてんとばかり、盛嗣もりつぐ を投げつけた。
不意を食った盛嗣は、
「な、何するかっ。伊賀っ」
跳ね返そうとし、また、わめ こうとしたが、平内左衛門の手が、その口をふさ いでいた。
その間に、平内左衛門の郎党が駆けて来る。盛嗣は、死力を振るって、やっと立った。だが、よろめき立ったとたんに、平内左衛門らの諸手もろて 押しに追われて、仰向けざまに海中へ突き落とされてしまった。
「・・・・あれやたれぞ。いまの水音は」
二位ノ尼が、そばの者へ、 いていた。
さりげない顔して、すぐそこへ取って返していた平内左衛門が、後ろの方から答えた。
「越中次郎兵衛が、はや、死出のおん先がけを仕ったものと思われまする」
尼は、無言であった。けれど、ざわ めきが辺りに立った。次郎兵衛盛嗣は、賢所の守りについていた大将である。神器に異変があったのではないか。次郎兵衛が持って海へ沈んだのではないか。そうした危惧きぐ や疑いの口走りだった。
「いえ、案じぬがよい」
尼は、言った。
「── 神鏡かみかがみ御唐櫃みからびつ は、余りに大きゅうて身に持てねど、神璽しんじ と宝剣に二品は、尼が手に、しっかと、携えておりまする。なお余す、片方の手で、主上を抱き参らせれば、敵が望む何物も、この世に残してはいますまい。・・・・・主上はいかが遊ばしてぞ。女院はまだか」
尼は、そぞろに、死を急いだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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