〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/21 (土) せい そう (三)

兵はただちに、船上の “死の清掃” にかかった。
知盛はまた、尼の前に来て別れを告げた。母と甘え、子として、いつくし まれて来た三十余年のきずな は今、知盛の胸をずたずたにしているに違いない。
だが、知盛は尼へ、静に、死の支度をすすめていた。尼も乱れはしなかった。いや、この子がいて、こうしてくれるので、今は死にやすいかのように、うなずいて見せた。── 世に疲れたこの母が、一番望んでいるのは、少しも早く、良人おっと のそばへ行きたいという願いのほかでないことを ── 知盛は く察していた。いや尼自身から聞いてもいた。
「おん供には、一門のたれかも参りましょうが、知盛もまた、お後からすぐ、死出の道を御一しょにいたしまする」
知盛が言うと、それまで、黙然としていた叔父の経盛が、
「否々、おん供は、賑わし過ぎるほど、大勢おる。── なお行く手の冥府よみのふ には、故清盛公、重盛のきみ を始め、孫の維盛卿これもりきょう やら、門脇かどわき どののお子の通盛みちもり業盛なりもり 、さてはまた、この孤父が子の経正、経俊、敦盛あつもり なんどが、みな待っていることであろうよ。・・・・されば、知盛どのは、あとの始末して、ゆるりと、参られたがよいぞ」
と、いつにない、明るい声音こわね で言った。
そして、その経盛は、そばにいた義弟の阿闍梨あじゃり 裕円ゆうえん に、 「得度とくど してくれよ、お剃刀かみそり は、真似まね ばかりでよい」 と頼み、また僧衣を乞うて、よろいの上に着、いつでもと、支度をすました。
それらは、一瞬に思われたが、いつか陽は、真紅の一環の端を、ちかと見せつつ夕雲に沈みかけてい、海づらも船上のあいろも、紫ばんだ暮気にくるまれようとしていた。
「みかどは、尼が抱きまいらせて」
やおら、尼は、屋形の外へ出て来た。経盛も、盛国も。そして侍座の僧侶そうりょ までことごとく、入水の覚悟を見せて、ふなべり へ立ち並んだ。
── 人びとは無言になり、今し荘厳そうごん の美を極めた落日の燃えくるめきを西方さいほう浄土じょうど と見て、たれいい合せるともなく、 を合わせた。
そして、女院とみかどを、お待ちしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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